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公開講演会
公開講演会について

日本イスラム協会では、毎年春と秋に公開講演会を実施しています。
毎回イスラム地域の文化、社会に関するテーマを一つ取り上げ、その分野でご活躍中の研究者や専門家を講師として迎えます。
開催情報は、講演会の1ヶ月ほど前から当ウェブサイトに掲載します。
また、会員以外の方でも無料でご参加いただけます。

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「「イスラーム的」な風紀を考える―サウジアラビアの場合」

(共催:科学研究費補助金(基盤研究(B))「現代ムスリム社会における風紀・暴力・統治に関する地域横断的研究」(代表:高尾賢一郎)

【日時】

【場所】

【詳細】

2020年10月24日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)

​ZOOMウェビナーによるオンライン開催

1970年代以降,イスラーム主義の高まりが顕著となっていますが,そのゴールとしての「イスラーム的」な国家や社会のあり方は,往々にして権威主義的なステレオタイプに陥りがちです。今回は典型的な「イスラームの国」とされるサウジアラビアの専門家であるお二人からお話を伺います。

 

講演者と演目
・高尾賢一郎氏(中東調査会)「宗教警察から見るイスラーム的風紀」
・辻上奈美江氏(上智大学)「女性の消費と起業実践からみる「イスラーム」と風紀」

参加方法:申込フォーム(https://forms.gle/22MLZV5SC4TtePTj9),またはポスター(下記リンクよりダウンロード可)のQRコードより,10/22(木)までにお申し込み下さい。当日までに,Zoomウェビナー会場のリンクをご登録のe-mailアドレスにお送りいたします。

公開講演会ポスターはこちらから。

「移民・難民からみる中東と欧州―ドイツの事例から」

【日時】

【場所】

【詳細】

2019年10月5日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)

東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室

中東の不安定化は,地球規模で影響を及ぼしている移民・難民問題の一因となっています。その縮図ともいえる欧州の中でも,特にこの問題に積極的に関与してきたドイツで現地調査に従事しているお二人からお話を伺います。

東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室

https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_07_j.html


 ※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。

 

講演者と演目
・石川真作氏(東北学院大学)「「外国人」「移民」「イスラム教徒」―ドイツ在住トルコ系移民の沿革――」(仮題)
・大河原知樹氏(東北大学)「ドイツにおける社会統合の理想と現実―旧東ドイツハレ市の調査を中心に―」(仮題)

「イランとサウジアラビアー中東の新たな対立軸」

【日時】

【場所】

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2019年6月8日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)

東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室

近年の中東情勢から浮かび上がるイランとサウジアラビアの対立構造。その背景と域内外に対するインパクトについて,中東政治の専門家に解説していただきます。

東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室

https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_07_j.html


 ※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。

 

講演者と演目
・坂梨祥氏(日本エネルギー経済研究所)「イランの「抵抗戦線」とサウジアラビア」
・松本弘氏(大東文化大学)「イエメン内戦の背景とゆがみ」

「日本のムスリム―モスクと宗教活動」

【日時】

【場所】

【詳細】

2018年10月6日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)

東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室

ムスリム人口が極めて少ない日本においても,近年,モスクは増加し,宗教実践および信者間または信者と地域社会のコミュニケーションの場として重要な役割を果たしています。この問題を長年調査してきたお2人の専門家にお話をうかがいます。

東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室

https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_07_j.html

(前回と会場が異なりますので、ご注意下さい)
 ※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。

 

講演者と演目
・店田廣文氏(早稲田大学)「日本のイスラム社会」(仮題)
・岡井宏文氏(早稲田大学)「ムスリム・コミュニティと地域社会」

「国家,民族,宗教ー東南アジアの知られざるムスリム・マイノリティー」

【日時】

【場所】

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2018年6月16日(土) 午後2時00分~4時30分

東京大学文学部法文1号館 113教室(本郷キャンパス)

世界のムスリム人口の半数近くを擁する東南アジアにも,マイノリティーとして暮らすムスリムが存在します。今回は,最近日本でも報道されているロヒンギャ問題と,カンボジアの事例を通じて,国家,民族,宗教の関係を考察します。

東京大学文学部法文1号館 113教室(本郷キャンパス)
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_01_j.html
(前回と同じ会場です)
※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。

講演者と演目
・根本敬氏(上智大学)「ロヒンギャ問題とは何かー存在を否定された人々の歴史と現状」
・大川玲子氏(明治学院大学)「カンボジアのチャム人ムスリムークメール・ルージュによる迫害と今ー」

「中東とアメリカ」

【日時】

【場所】

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2017年10月14日

・溝渕正孝「『アメリカ後』の中東?――揺れる超大国と地域秩序の行方」」
・横田貴之「「エジプト革命」再考—イスラーム主義の政治的「敗北」の考察」

「イスラームにおける信仰論:全容と真髄 イスラームの中核としての信仰を論じる:真の理解を求めて」

【日時】

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2017年5月13日

・水谷周「イスラーム信仰論の全貌」
・松山洋平「イスラームにおける信仰の条件:罪ある者と無知なる者の信仰」

「サイクス=ピコ協定から100年―パレスティナ問題の今」

【日時】

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2016年10月8日

・藤原亮司「ガザの破壊と援助、分断されてゆくパレスチナ」
・錦田愛子「再難民化するパレスチナ人~サイクス・ピコ合意100年目の離散の現状」

「イスラームと西洋―過去と現在」

【日時】

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2016年6月19日(於東京大学)

  1. 加藤博「イスラーム文明と西欧」

  2. 竹下政孝「イスラーム世界と西洋ー近くて遠い隣人関係」

2015年度後期・日本イスラム協会公開講演会

「東南アジアのイスラーム―知の伝統とネットワーク」

【日時】

【場所】

【詳細】

2016年1月30日(於東京大学)

菅原由美「東南アジア島嶼部におけるイスラーム化の進展と伝統の創出―ミラージュ物語を題材に」
川島緑「ミンダナオからマッカへ―19世紀の写本からみるイスラーム学者の旅」

「2015年イスラーム世界」

【日時】

【場所】

【詳細】

2015年6月13日(於東京大学)

飯塚正人「アラブ諸国におけるイスラム主義運動の動向」
見市健「インドネシアにみるイスラーム主義運動の普遍性と地域性」

「ムスリム女性とヒジャーブ―イスラームにおける空間分離とヴェール」

【日時】

【場所】

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2014年11月30日(於東京大学)

1. 山﨑和美「男女の空間分離という社会規範とイラン女性」
2. 後藤絵美「エジプトにおける芸能人女性の悔悛とヴェール」

2014年度前期・日本イスラム協会公開講演会

「アルジェリアと地中海世界」

【日時】

【場所】

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2014年6月22日(於東京大学)

1. 工藤晶人「アルジェリアと海─近世から近代への持続と変化」 
2. 渡邊祥子「20世紀のアルジェリアとアラブ世界」

2013年度後期・日本イスラム協会公開講演会

トルコの歴史と文学―16-21世紀

【日時】

【場所】

【詳細】

2013年11月24日(於東洋大学)

1. 宮下遼「トルコ文学の中のイスタンブール:文学的言説空間からのアプローチ」

 

本講演では,古来より言語,宗教,文化的背景を異にする様々な人々によって文学作品に描かれてきたイスタンブールの姿を,16世紀から21世紀まで通時的に辿った。この都市を天の園に比せられる世界の中心として寿いだトルコ古典詩人や,異文化圏へのロマンティシズムとエキゾティシズムの主要な源泉として活用した西欧作家から説き起し,共和国建国後,作家の関心がアナトリアへ向けられ農村小説が興隆する50年代から80年代には都市周縁のスコッターを介して描かれる社会的貧困の一類型の中に埋没していったことを紹介し,こうした前提条件が「イスタンブールの作家」オルハン・パムクの登場をしてこの街の「文学的復権」とする類の言説に結び付いている点を指摘した上で,主に90年代作家たちによってパムクとは全く異なった都市表象が紡がれ続けている点も挙げ,文学者たちのこの都市へのコミットメントがいまだに豊かな多元性を保っているという結論を述べた。

2. 佐々木紳「近代トルコの文学と言語:多元的理解に向けて」

中東・北アフリカ・バルカンに領域を広げたオスマン帝国では,さまざまな言語と文字が用いられた。そこでは,「トルコ語」さえもが多様な姿をとった。この講演では,アラビア文字表記のトルコ語(オスマン語),ギリシア文字表記のトルコ語(カラマン語),そしてアルメニア文字表記のトルコ語(アルメニア・トルコ語)で営まれた文芸活動と諸作品を紹介しながら,多元的・差延的な構造をもつ「オスマン文学」の世界を概観した。まず,オスマン社会の言語と文字,およびリテラシーについて確認し,つぎに,シェムセッティン・サーミー『タラートとフィトナトの愛』,ミサイリディス『世界遊覧,そして虐げる者と虐げられる者』,ヴァルタン・パシャ『アカビの物語』を取り上げながら,オスマン帝国における小説登場の時期について検討した。そして,フランスの文豪アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』のオスマン帝国における受容の経緯をたどりながら,多言語・多文字社会における翻訳文学のあり方と諸集団の嗜好の偏差について論じ,最後に,「オスマン文学」というフレームの有する可能性と有用性について提言をおこなった。

2013年度前期・日本イスラム協会公開講演会

マグリブ・アンダルスの歴史と社会

【日時】

【場所】

【詳細】

2013年6月2日(於東京外国語大学)

1. 佐藤健太郎「ジブラルタル海峡の北と南~イスラーム期のスペインとその対岸」

ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸とを分かつジブラルタル海峡は,最も狭いところでわずか15キロメートルの幅しかなく,海峡の両岸では,古来,頻繁な交流が見られた。今回の講演では,アンダルス(イスラーム期のイベリア半島)と対岸のマグリブとの密接なつながりを示すため,特に14世紀を対象として様々な事例を紹介した。

まず海峡の両岸には頻繁な知識人の交流が見られた。アンダルスで生まれマグリブで活躍する,あるいはその逆の経歴を持つ知識人の事例は枚挙にいとまがない。これを可能にしたのは,アラビア語を共通語とする共通の文化的土俵であった。また,海峡の両岸は文化の流行も共有していた。グラナダのアルハンブラに代表される14世紀的な彩色タイルと精妙な石膏細工で特徴付けられる建築様式は,同時代のマグリブのマドラサ建築にも見て取れる。また,フェスのマリーン朝宮廷で始まった預言者生誕祭の夜宴は,「マグリブ式」の流儀をともなって同時代のグラナダにも導入されていた。

さらに,13世紀に大規模に展開されたキリスト教徒の征服活動に伴って,アンダルスから大量の移民がマグリブに到来したことも見落とせない。セビーリャからチュニスに移住し,14世紀には歴史家イブン・ハルドゥーンを生み出すハルドゥーン家がその好例である。同様のアンダルス移民はマグリブ各地に見いだすことができる。1492年のグラナダ陥落,1609年のモリスコ追放によりアンダルス移民の流れはさらに続き,彼らがもたらした文化遺産は現代に至るまでマグリブ各地に伝えられている。

2. 斎藤剛「ベルベル人とイスラーム―モロッコにおける「先住民」運動の展開とその宗教観」

北アフリカから西アフリカ一帯を故郷とする人々に,ベルベル(アマズィグ)人と呼ばれる人々がいる。彼らの中でもとくにアルジェリア,モロッコ出身者はフランスなどに多く移民をしている。ベルベル人の間では,近年,故国と移住先の国々をつなぐトランスナショナルなネットワークを活用しつつ,故国における言語権,教育権の承認をはじめとした諸権利を請求すると共に,フランスなどにあってはアマズィグ人としてのアイデンィティーを希求すると共に,自らを先住民と規定する動きが高まっている。

本発表では,モロッコにおけるアマズィグ運動の成立と展開の概要を把握すると共に,アマズィグ運動に顕著な言語観,歴史観,故郷観との関わりで,アマズィグ運動においてイスラームはいかなる位置づけを持つものなのかを明らかにすることを目指した。

以下,発表の内容を簡単に記す。まず,アラブ人とベルベル人を差異化する運動の民族認識が,フランスによる植民地支配期に実施された学術調査や宣教活動,民族政策において醸成された民族観に由来するものであることを示した。そこでの特徴の一つは,イスラームを北アフリカにもたらしたアラブ人に比して,ベルベル人のイスラームは「表層的」なものであるという理解である。このようなイスラーム化の度合いの違いを民族と結びつける理解は,その後,世俗主義的な傾向を有し,イスラームから微妙に距離をとろうとする運動主導者たちに継承をされていくことになる。

次いで,独立後のモロッコにおけるアマズィグ運動の成立背景には,国家統合政策の一環としての「アラビア語化」や「モロッコ化」政策,公共の場や教育におけるベルベル語の使用禁止,都市への人口流入の増加による独自の慣習や伝統,言語の忘却への危惧,都市生活を開始したベルベル人への差別などがあることを指摘した。さらに,当初は国家の厳しい規制対象となっていた運動が1990年代に入ってから国家の主導の下,積極的に容認され活発化するようになった経緯を明らかにした。

運動の特徴は,とくにその言語観,歴史観,故郷観,宗教観に現れている。言語観においては,2001年に設立された王立アマズィグ学院主導の下で,もともとモロッコに存在するベルベル系の三言語を統一して新たな標準アマズィグ語を創出する際に宗教的語彙を選択的に排除して策定していることを明らかにした。故郷観については,ベルベル人の従来の故郷概念タマズィルトとは別に,運動が新たに北アフリカから西アフリカのベルベル(アマズィグ)人の分布域を包含するタマザガという故郷概念を創出しているという側面に注目をした。この新たな故郷概念の創出と連動しているのが,運動における歴史観である。運動主導者は,タマザガという領域的故郷概念を措定したうえで,そこにおけるイスラームが,東方イスラーム世界とは異なる穏健なイスラームであったと認識をしている。

世俗主義的な傾向を有しつつ,国家主導の下で力を得てきたモロッコにおけるアマズィグ運動は,しかし,同じベルベル人の一般住民の広範な支持を得て展開している運動ではない。一般住民の多くがムスリムとしての自負心を有しているという一般的状況の中において,宗教色を脱した世俗主義的な自己認識を過度に推し進めることは,住民の自己認識から乖離する危険性を伴っている。運動が言語策定において宗教的語彙を選択的に排除しているのにも関わらず,歴史観において,東方イスラーム世界におけるイスラームのあり方と北アフリカにおけるそれとの差異を強調しているのは,このような運動の目指す方向性と,一般住民の感覚とのズレを埋めるという意味合いをもったものと考えられる。

2012年度後期・日本イスラム協会公開講演会

イスラーム化とは何か―中東と西アフリカの事例

【日時】

【場所】

【詳細】

2012年11月17日(於東京大学)

1. 柳橋博之「中東におけるイスラーム化の経緯:改宗と法学派の展開」

イスラーム化という言葉には,イスラームへの改宗と,ムスリムが自分がムスリムであることに自覚的になることや様々な社会規範がイスラームの教義に合致しているか否かを問題することの2つの側面が含まれる。本講演では,東イスラーム世界を中心として,改宗の進行と法学派の拡大について論じた。最初に,アラブ・ムスリムにより征服された地域におけるイスラームへの改宗を扱ったバリエットの研究を簡単に紹介した。次に,スンナ派4法学派の一つであるハナフィー派が,学祖アブー・ハニーファの偉業を讃える言い伝えを広めることにより自派の勢力を拡大しようとしたり,一般信徒のためにイスラームの教義についての平易な解説書を著したりしたことを指摘し,それぞれ幾つかの事例を挙げて説明した。

2. 苅谷康太「西アフリカにおけるイスラームの歴史的展開:11世紀から19世紀まで」

7世紀前半に西アジアのアラビア半島で成立したイスラームは、マグリブ(北アフリカ西部)、サハラ沙漠西部を経て、遅くとも11世紀前半には、その発祥の地から遠く離れたスーダーン西部(サハラ以南アフリカ北西部)にまで伝播した。本講演では、このアフリカ大陸の西側の地域一帯にイスラームが至る過程、およびそこで発生したイスラームに纏わる諸事象を、「第1部:アラビア半島からスーダーン西部へ(7–11世紀)」、「第2部:サハラ西部から始まる宗教改革運動(11–12世紀)」、「第3部:諸王とイスラーム(13–16世紀)」、「第4部:連鎖するジハード(17–18世紀)」、「第5部:スーフィー教団の展開(18–19世紀)」の5部構成で時代順に確認し、10世紀以上に及ぶ時間的推移の中で展開した〈イスラーム化〉の様相を具体的に検討した。

2012年度前期・日本イスラム協会公開講演会

イスラーム金融の現状

【日時】

【場所】

【詳細】

(2012年4月30日 於東京大学)

1. 福島康博「イスラーム金融の仕組みと各国の取り組み」

 近年日本でも注目を集めているイスラーム金融について、主にグローバルな市場規模と各国の体制作り、イスラーム金融の仕組み、そしてイスラームから見たイスラーム金融の意義の3点を、本講演では取り扱った。

 2011年現在のイスラーム金融市場は、1兆米ドルを上回る規模となっている。中でも湾岸諸国(GCC諸国)とイランを中心とする中東・北アフリカ諸国とが大きな割合を示しており、これに東南アジアのマレーシアが後を追っている状況となっている。他方、非イスラーム諸国(OIC非加盟国)としては、グローバルな金融センターの役割を担っているイギリスとスイスが比較的大きい。イスラーム金融の利用者だが、マレーシアのイスラーム銀行を例に挙げると、融資を受けた者のおよそ60%が個人(家計部門)であり、利用目的は自動車や不動産購入、教育ローンが中心となっている。他方、預金残高に占める個人の比率は20%強にとどまっている。こうした点から、マレーシアにおけるイスラーム銀行は、企業や政府の余剰資金を融資という形で家計に部門に供給し、利用者の住宅や自動車購入を実現させることで、人びとの社会生活の拡充に寄与している。

 金融産業はもともと政府・中央銀行による規制が厳しい産業であるが、イスラーム金融が産業として成り立つためには、政府・中央銀行による経済・金融政策はもとより、法律・会計・税制などの諸制度、さらには国内外のイスラーム勢力の動向に左右される側面が強い。例えば、ローン契約の替わりにイスラーム銀行が割賦販売を行うムラーバハ融資においては、ローン契約に比べて借り手の印紙税や消費税の負担が高くなる。そのため、マレーシアやインドネシア、イギリスなどでは税負担の減免措置を講じており、イスラーム金融機関の競争力を損なわせないような対策が取られている。こうした減税措置には政府の意向が不可欠であるため、結果的には、政府のスタンスがその国のイスラーム金融産業のあり方を大きく規定しているといえる。また、シャリーア法廷がイスラーム金融のあり方に異議を唱えた例(パキスタン)や、ファトワー評議会がムスリムによるFX取引(外国為替証拠金取引)を禁ずる判断を下した例(マレーシア)もあり、国内のイスラーム団体・組織が間接的にイスラーム金融に影響を与えることがある。

 イスラーム金融が誕生したきっかけは、20世紀初頭のエジプトに登場した郵便貯金に対し、利子がクルアーンで禁じられたリバーに該当するのではないかという議論が起きたことに由来する。その後、イスラーム法学者などによって金融システムに対する検討が行われ、リバーの排除だけでなく、ハラールの遵守、ガラル(不確実性)の排除、ザカートの負担、そしてシャリーア・ボードの設置などが求められ、これらに応える形で現在のイスラーム金融制度が整えられた。中でも、イスラーム金融商品は、これらイスラームに反すると目される要素を排除するため、近代以前よりイスラーム諸国で伝統的に用いられてきた契約形態を援用することで、とりわけ巧妙に利子発生の問題を回避している。

 ムスリムにとっては、イスラーム法は日常生活に密接に係わるものであり、経済・金融活動も例外ではない。例えば豚やアルコールに対しては、単に飲食が禁じられるだけでなく、身体的接触やこれらを扱う業者への融資・投資もまた禁じられると解される。ここから、小売業、運輸業、食品製造業、金融業などでイスラームに反する要素を排除したハラール産業が近年興ってきている。イスラーム金融は、安全・安心なムスリムの日常生活を金融面から支える産業といえよう。

2. 椎名隆一「ビジネスとしての日本におけるイスラーム金融~非ムスリム国のイスラーム金融への係わり方~」

 20世紀後半からのイスラーム復興の流れと、70年代から始まった中東オイル・マネーに象徴される富の急激な蓄積を背景として勃興した現代イスラーム金融は、国際金融のゆるぎない潮流の一つに成長した。イスラームとは歴史的な関わりが薄い日本でも、イスラーム金融誘致のために既に国内法を改正して取り組みを開始している。

 ただし、日本のイスラーム金融への関心は、総じて、イスラームの深い理解に基づくものではなく、もっぱら実利的な動機によるところが大きい。 しかし、こうしたビジネスライクなモチベーションであっても、中東・マレーシアをはじめとするイスラーム金融推進国は、非ムスリム国の取り組みを太宗は歓迎するというスタンスであり、イスラーム金融はムスリムだけのものという狭い考え方ではない。イスラームが本来もつ「他文化への寛容性」とでもいえるような対応を示している。

 イスラーム金融は、利息(リバー)の禁止以外にも、損益分担や実態取引の裏付けを重視する金融であり、日本のように、深いイスラームへの理解をもたない国であっても、イスラーム金融を実践することにより、自ずとこの実態経済に見合った金融を実践することになる。

 日本では、まだ初歩的な段階ではあるが、二つのアプローチでこれまでイスラーム金融に取り組んできている。一つは、イスラーム・マネーを日本やアジアに誘致することによる金融・証券市場や地域の活性化等を目指したいとする金融当局や政府系機関等による上からの政策的なアプローチ(Top Down Approach)であり、一方で内外合わせた民間の様々なビジネスの取り組みによる下からのアプローチ(Bottom Up Approach )とが同時並行的に展開している。

 イスラーム金融を日本国内で実施する場合、シャリーア的な金融の組み立てが、国内法体系とどの程度、親和性があるかが重要なポイントとなるが、日本法との類似性が一部みられるところもあるが、完全に同じものはない。従って、そのままできるところと、法改正が必要なところがある。ただし、法改正を行うにしても、日本の対応は、部分的であり、イスラーム金融を正面から見据えた民商法などの基本法の改正を含む包括的なアプローチではないため、新たに作られた法律の枠組みに基づいてイスラーム金融を行う場合にも、様々な制限に直面する可能性がある。

 2008年に銀行法施行規則等が改正され、子会社等を通じたイスラーム金融参入が可能になったが、法律上は「金銭の貸付と同視すべきもの、宗教上の理由により利息禁止、専門的な知見を有する者による合議体の判断」といった要件を指定するだけのものであり、また、2011年の日本版スクーク実現のための法改正では、これまでほとんど使われていなかった資産流動化法の中の特定目的信託が発行できる「社債的受益権」を利用すれば、スクーク的な扱いとするための必要な税制をつけるといったアプローチの仕方である。 

 目下、日本版スクークの実現が注目されているが、国内発行体の利用ニーズは、全般的に日本企業の資金調達ニーズが停滞気味であることや、低金利下で銀行などの間接金融有利となっていることなどから、スクーク発行の動機をもつ企業を見つけるのは当面難しさが指摘されている。

 日本の取り組みが実を結ぶには長い時間がかかると予想されるが、一端、利用者が現れれば、急に市場が勢いづく可能性はある。国内的にも、震災後の復興需要、特にインフラ整備関係で、日本版スクーク活用のポテンシャルは大きい。また、マレーシア等の海外発行体にも本市場を活用しての資金調達を行う道が開かれている。

2011年度後期・日本イスラム協会公開講演会

アラブ世界-回顧と展望

【日時】

【場所】

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2011年12月10日(於東京大学)

(1)臼杵陽「近現代史の中のアラブ革命」

講演ではアラブ革命をアラブ近現代史の中で位置づけることを目的とした。まず、現状を概観した上で、「ジャスミン革命」とエジプト革命は、「若者革命」「ネット革命」等々と命名され、独裁体制崩壊の背景に、新自由主義的政策に伴う貧富の格差の拡大と失業があり、また、独裁的支配者層の政治腐敗と縁故主義と不正蓄財があり、国軍が動かなかったことも政変を後押ししたことが指摘された。次に、アラブ近代における植民地化の類型化を行ない、革命の起こった国々はオスマン帝国支配下にあり、19世紀以降、「近代化」の道を歩む中で植民地化された歴史的事実を確認した。さらに、「東欧の春」以降、アラブ地域の民主化は進むどころか、逆に権威主義的独裁体制が強化されることになり、「アラブ例外論」が語られるようになった。そのようなアラブ例外論に関して、政治的優先課題としてアラブ・ナショナリズムやイスラーム運動といった既存の国家の枠組みを超える汎(パン)的運動の存在が大きな要因としてあることを強調した。最後に、識字率、出生率、内婚率を指標として革命の勃発を予見しようとするE・トッドの人口統計学的観点からのアラブ革命論を批判的に検討した。

(2)長沢栄治「エジプト革命の歴史的位置づけ」

2011年1月以来のアラブ諸国の政治動向について、共和制国家と王制・首長制国家を比較して概観し、今回のアラブ革命の波が60年前のアラブ民族革命と同じく、全アラブ世界に及んでいることの歴史的な意味を論じた。エジプトについていえば、近代史上の四大革命(1798年反フランス占領抵抗運動、1881-82年オラービー革命、1919年革命、1952年7月革命)との比較において、とくに新しい国家体制の構築との関連で、今回の革命がどのような結果をもたらすのかが注目される。民衆蜂起の規模からいえば、1919年革命に匹敵するし、また7月革命との比較でいえば、この60年前の革命でできた体制(ナセル的国家)の変革こそが今回の革命の課題となっているという見方を示した。最後に、ナギーブ・マフフーズ『バイナル・カスライン』塙治夫訳(新訳『張り出し窓の街』)で描かれるような1919年革命における殉難者たち(シュハダー)、また東日本大震災の犠牲者・殉難者たちとの比較のもつ意味についても言及した。

2010年度後期・日本イスラム協会公開講演会

イスラーム世界の墓廟参詣

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(2010年11月23日於東京大学)

1. 守川知子「神と人をつなぐ場へ――シーア派ムスリムの聖地巡礼」

 イスラームは,基本的に神と人とのあいだに,司祭や僧侶といった仲介者を置かない教えをもつ。しかし,イスラーム社会にも「神に愛された人々(神の友)」が存在し,神に選ばれし彼ら「聖者」には,神から賦与される恩寵(バラカ)が自身の肉体や身につけているものに宿るとされる。このような聖者は,アッラーと信徒とのあいだを「とりなす」存在として一般の信徒たちの尊崇を享受する。加えて聖者に賦与される神の恩寵は,聖者の生前のみならず,死後もまた同様の効果をもって聖者の遺体や身につけていたものに宿りつづける。そのため,聖者の墓や廟は,恩寵を授かる場として,イスラーム社会で広く信徒たちの参詣地としてにぎわいを見せてきた。

 シーア派は,預言者ムハンマドの従弟かつ娘婿のアリー(661年没)を指導者として重視する一派であり,ムハンマドの血の「聖性」を伝えるアリーの子孫たちを「イマーム」として尊崇する。シーア派では,各地に残るイマームの墓への参詣がきわめて盛んである。代表的なイマームの墓廟としては,アリーの眠るナジャフやフサイン(680年没)の殉教地であるカルバラー(ともにイラク),イランのマシュハドなどが挙げられるが,これらの聖地は現在もまた非常に多くの参詣者を惹きつけている。

 歴史的に見て,このようなシーア派の聖地巡礼が最盛期を迎えたのは,19世紀後半のことである。この時代,イランからイラクへの参詣者は,年間10万人(当時の人口の1%)にものぼった。今回は,この19世紀後半のシーア派ムスリムの墓廟参詣について報告した。まずは,おもにその参詣旅行の諸相を,ルート,時期,期間,参詣者の形態,移動の手段,宿泊,費用,動機といった各方面から検討し,つづいてイラクの参詣場所や参詣しない場所,そして参詣以外に彼らはどのようにしてイラクで時間を過ごしているのか,といった諸点について言及した。

 その結果,参詣者が片道1ヵ月の道のりを集団となって徒歩で移動し,社会的身分に応じはするものの数ヵ月から1年分の俸給に相当する金銭を費やし,ときに生きている人々のみならず,死者さえも,天国の約束された聖地に眠ろうとキャラバンとともに運ばれる(移葬),といった参詣の諸相を明らかにした。一方で,聖地に到着した参詣者たちは,毎日の廟参詣のほかに,観光や散策,買春,商売など,多様な活動に従事する。当時の有名な俗諺に,「参詣も,商売も(ham ziyarat, hamtijarat)」というのがあるが,これは聖俗両面をあわせもつ参詣旅行の実態を如実に言い表しており,世界各地の聖地巡礼とも似通う点であろう。

 また,イランからイラクへのシーア派聖地参詣はイラン社会にとって見ると,メッカ巡礼に比して,地理的・経済的・心理的・歴史的・言語的諸側面においては近しいものの,社会的な重要性はメッカ巡礼に劣ることを指摘しうる。他方,当時,イランとオスマン朝イラクの国境が画定していくなかで,イランからの参詣者たちは,異国への「聖地巡礼」という行為をつうじて,「イラン人」そして「シーア派」というアイデンティティを確立させていくことになる。同時に,19世紀後半に,イランから大量に流入するシーア派巡礼者は,イラクのシーア派化を進める大きな要因の1つであったことも忘れてはなるまい。これらの諸点が,19世紀後半のシーア派ムスリムの聖地巡礼に関する主だった特徴として挙げられる。


2. 菅原純「変貌する都市と聖墓:カシュガルにおける聖墓の過去と現在」

 中国・新疆ウイグル自治区の西部に位置するカシュガルは,東西交渉の拠点として古より繁栄した都市であり,「六城」とも「七城」とも呼ばれた,いわゆる東トルキスタンのオアシス都市群のなかでも,突出した重要性を持つ都市である。政治,経済,宗教,文化の中心のひとつとして,歴史的に形成されたその都市と,都市を包含するカシュガル地方の姿は,まさに雅称「壮麗なるカシュガル('Azuzane Kashghar)」に相応しい,よく整備された都市と農村の伝統的景観を今日に伝えている。

 この地方に多数存在する「聖墓」(イスラーム聖者廟/mazar)は,その伝統的景観の中で不可欠の要素であり,地域住民の信仰の拠点として,あるいは地域を跨いだ広域的な人的交流の結節点として,重要な役割を果たしてきた。カシュガル地方の聖墓は,その数は「殉教者の国shahidane」の雅称を持つホタン地方には及ばないものの,おそらくはテュルク人最古の「聖墓」であるアルトゥシュのサトゥク・ブグラ・ハン廟のように歴史的に社会的影響力が確認されるものから,限られた地域の住民のみが敬う小規模なものまで,さまざまな規模・性格のものが多数存在している。

 こうした「聖墓」たちは,カシュガル史の中で,たえずその存在感を誇示していたといえる。ムスリムのハーンたちが統治した時代(~18世紀)から,異教徒である清朝の支配下に置かれた時代(18世紀~20世紀),さらには20世紀にウイグル民族主義が高まりを見せた時期にいたるまで,上述のサトゥク・ブグラ・ハン廟,イェンギヒサルのオルダム廟そしてカシュガル旧市東北郊のアーファーク廟などをはじめとする「聖墓」,ならびに「聖墓」に関わる聖裔や信徒たちの名を,私たちは常に史書の記述の中に見出すことができるのである。

 さらに,近年は「聖墓」に関係した文書史料(いわゆる「マザール文書」)の利用により,カシュガル史の中での「聖墓」の具体的状況がより詳細に明らかにされつつある。たとえば,『カシュガル・ワクフ文書集成』(仮題。1930年代にまとめられたと思しきカシュガル地区所在のワクフ財産関連文書の手書き筆写による集成)は,当時の「聖墓」をめぐる社会経済状況の包括的把握に資するのみならず,個別の「聖墓」と地域社会,ならびに行政府との歴史的関係を理解する上でも有益な史料である。今後はこうした文書史料の利用と現地調査の実施により,同地の「聖墓」をめぐる事情がより明らかになっていくことと思われる。

 21世紀の今日,カシュガルは未曾有の変動の只中にある。中国政府による「改革・開放」,「西部大開発」そして今年(2010年)5月に決定されたカシュガルの「経済特区」化等の国家プロジェクトは,この地域の伝統的景観を劇的に変えつつあり,そうした中で「聖墓」もまたその変化の波に晒されている。カシュガル旧市街では従来の民家をすべて新しいものに建て替える組織的な都市開発がもっか進められており,その中でいくつかの中小規模の「聖墓」はすでに失われた。またアーファーク廟はじめいくつかの著名な「聖墓」は,「信仰の場」から「観光地」へ,すなわち多くの内外の観光客が訪れる世俗的なスポットへと変貌を遂げた。さらに近年顕在化している民族問題は,伝統的な参詣行為や巡礼にも,それに制限を加える形で影響を及ぼしているといわれる。こうした急速な変化が今後果たしてどこへ「着地」するのか,カシュガルの「聖墓」と信仰をめぐる問題は,いままさに興味深い転換点に立っているのである。

2010年度前期・日本イスラム協会公開講演会

異宗教の共生

【日時】

【場所】

【詳細】

(2010年4月25日於東京大学)

1. 濱本真実「ロシアのムスリム―服従から共生へ」

現在,ロシア連邦には多くのムスリムが居住している。チェチェン紛争に絡んだ報道から日本で得られる印象とは異なり,ロシア連邦内ではムスリムの信仰の自由は概ね保証され,各所でムスリムとキリスト教徒のロシア人が平和的に共生している。中でもロシア連邦タタールスタン共和国は,ムスリムであるタタール人が,紆余曲折の歴史を経ながらもロシア人との平和的な共生を実現している興味深い例である。

16世紀半ばにムスリムのタタール人を臣民とするようになったロシアは,17世紀半ばまで,例外はあったが概して寛容な宗教政策を採っていた。その後ロシアが帝国へと脱皮していく過程で,18世紀半ばまで,ロシア政府は多くのタタール人の住む沿ヴォルガ地方で,タタール人支配層に対しても一般民に対しても,強制的な正教改宗政策を採用した。支配層に対する改宗政策が一定の成果を収めたのに対し,一般民に対する改宗政策は効果が出ず,改宗したのは多くても数パーセントだった。

18世紀後半のエカチェリーナ2世の治世には,それまでの強制改宗政策は撤回され,沿ヴォルガ・ウラル地方ではイスラーム文化が復興する。この時代に,ロシア政府はタタール人を東方拡大政策のために利用するようになり,タタール人もロシア政府の方針を利用して,主に商人として力を蓄えていった。これらのタタール商人は,19世紀末からのロシアのムスリムの近代化に大きな役割を果たすことになった。

2. 菅瀬晶子「中東のキリスト教徒とムスリム―東地中海地域の事例から―」

本講演は,中東でアラビア語を母語とするキリスト教徒の概要について,東地中海地域の事例をもとにまとめたものである。まず,日本ではほとんど知られていない,中東のキリスト教会の教派について簡単に解説をし,キリスト教徒たちがどのような生活を実際に営んでいるのか,いくつかの写真や実例をもとに紹介した。

次に,長い歴史の中で,キリスト教徒とムスリムがいかにして共存関係を保ってきたのかについて述べた。中東では一般的な,一神教すべてを起源を同じくする「アブラハムの宗教」とみなす考え方や,共通の聖者・預言者を敬う民間信仰や,ともに祭を祝う慣習が,共存関係を築く上で大きな役割を果たしている。

そして最後に,その一神教徒の共存関係に亀裂をもたらすこととなったイスラエル建国に触れ,ヨーロッパで生まれたシオニズムが,中東の一神教徒たちに与えた影響について述べた。また,パレスチナ・イスラエルで一神教徒の共存を再構築してゆくうえでも,民間信仰が重要な役割を果たしうることを指摘した。

2009年度後期・日本イスラム協会公開講演会

変貌するイスラーム世界の都市

【日時】

【場所】

【詳細】

(2009年12月13日於東京大学)

1.新井勇治「イスラーム都市の生活空間-ダマスクス旧市街の変容と現状」

 現在のシリア・アラブ共和国の首都であるダマスクスは,数千年の歴史を有し,交易の重要な拠点として栄えてきた。現在のダマスクスの街並みは,古代に起源をもち,中世以来の姿が続く城壁に囲われた旧市街と,近代以降その外側に拡張した西欧的な計画による新市街とに分かれる。特に旧市街やその周辺では,紀元前20年紀にはすでに人が定着し農業が営まれた痕跡が見つかっている。続く古代ローマ,ビザンティン時代には,旧市街が整備され,格子状の街路網や地下水道設備,神殿やアゴラなどの都市骨格が形成された。7世紀にアラビア半島に起こったムハンマドによるイスラーム教の支配下に入った後,ウマイヤ朝で首都となり,アラブ・イスラーム勢力拡大の中心地として益々繁栄した。旧市街の格子状の街路は,次第に複雑に折れ曲がり,袋小路も多くなっていく。この傾向は,ビザンティン時代からすでに見られていたが,イスラム時代にさらに進んでいく。また,緩やかな宗教別の住み分けが進み,イスラーム教徒がウマイヤ・モスクを中心とした西側に,そして東側の北部にキリスト教徒,南部にユダヤ教徒が住み着いた。

 次に,旧市街の建築に注目していく。中心部からやや北西に寄ったところに,重要な宗教施設のウマイヤ・モスクがある。このモスクの場所は,古代から聖域として扱われ,古代ローマ時代にはユピテル神殿,続くビザンティン時代には洗礼者ヨハネの大聖堂となり,ウマイヤ朝支配の8世紀初頭に町の大モスクとして建てられた。現在,モスクの周囲には,アラビア語でスークと呼ばれる市場が展開し,小売り店舗やハーンと呼ばれる隊商宿などの商業施設,ハンマーム(公衆浴場)やマドラサ(イスラーム神学校)などの都市施設が密集し,ものや人に溢れた国際的な喧騒の空間となっている。

 それに対し,住宅街では静寂や安全性が求められ,よそ者が入り難い,狭く折れ曲がった街路や袋小路が多くなっている。街路には建物の張り出しによるトンネルが至る所にかかり,特に人通りの多い街路から分岐する狭い道の入口に多く見られる。そこには,かつて街区門が設けられ,人の出入りが制限されていた。

 薄暗く閉鎖的な街路から,住宅に入ると世界は一変し,緑に溢れ,噴水が設けられている開放的な中庭に出る。中庭は住宅の規模によらず,全ての家に見られ,家族のプライバシーを確保し,快適な寛ぎの空間となっている。

 近年の旧市街の状況として,新市街への住人の流出が見られ,空き家となっている住宅が増えてきている。空き家となったためにメンテナンスがおろそかになり,崩壊の危機を向かえつつある住宅も少なくない。また,ここ数年の傾向として,ダマスクス旧市街の観光としての価値の高まりにより,空き家の持ち主や借り手が,伝統的な形態や意匠を残しつつも,住宅内部をレストランやホテルに改修しているケースが急速に増えている。そのため,それまで静寂な住宅街であったところが,観光客や来客によって深夜まで騒がしい場所となってしまい,近所の人々が長らく住んでいた家を出て行かざるを得なくなっている悪循環が生まれ出している。

2.岩崎えり奈「都市社会カイロ―エジプトの都市・農村関係」

 本講演では「変貌するイスラーム世界の都市」の例として,カイロを取り上げ,都市社会カイロの歴史的な変遷を説明した後,現代カイロの都市下層地区の現状について事例を取り上げつつ紹介した。

 まず初めに,都市カイロの発展と個性について,「ナイルの賜物」という生態的な立地,地政学的な立地条件や社会経済的な特徴から説明し,カイロがアラブ世界における中心であるとともに,エジプト社会においても政治・経済の中心であることを様々な地図を紹介しつつ概観した。

 続いて,地図資料に依拠して,伝統都市カイロの形成から現代都市にいたる都市社会カイロの歴史的な変遷を検討し,現代のカイロが伝統都市,近代都市,農地における「インフォーマル」地区と砂漠のアメリカ的な空間を特徴とする現代都市の3つの空間からなる重層的な空間構造をもつことを明らかにした。そして,こうした多様な都市空間がそれぞれに分断されて存在しているというよりも複雑に重なり合っていること,そうした都市空間の重層性が外との関係だけでなく農村との関係によって構築されていると考えられることを強調した。

 そして,農村との関係によって形成されたカイロの都市空間の例として,3つの低所得者地区を取り上げ,農地ないしは政府所有の空き地から住宅街へと1980年代以降に変貌した過程,農村から流入し定着した住民の移動過程を調査資料や地図などに依拠しつつ説明した。

2009年度前期・日本イスラム協会公開講演会

中東イスラーム世界とインド洋

【日時】

【場所】

【詳細】

(2009年4月25日於東京大学)

1.家島彦一「インド洋とイスラーム:最近のインド洋研究を中心に」

 最近,インド洋とその周辺・島嶼部を一つの全体として捉える<インド洋研究(Indian Ocean Studies)>が自然科学・国際政治学・歴史学の各分野で高まっており,それに関連する学際的共同研究,国際学会と研究センターの創設,研究書・雑誌・資史料の校訂・編纂事業などが相ついで行われている。発表者は,すでに1969年以来,イスラームの歴史研究におけるインド洋研究の重要性を指摘し,そのための理論的枠組みとして<インド洋海域世界論>を提唱してきた。

 本講演では,まず初めに1970年以後,多分野にわたり共通してインド洋研究が高まってきたことの理由について分析・検討した。

 次に,発表者の提起するインド洋海域世界論を紹介するとともに,その研究の有効性と意義について,海域世界をどのように描くかという地域(世界)論,インド洋海域世界の海域区分と時代区分などの方法論に関わる問題を説明した。

 そして,インド洋海域世界におけるイスラーム・ネットワークの形成と展開の過程について,1.なぜ,インド洋海域世界にイスラーム・ネットワークが拡大したのか,2.インド洋海域世界がイスラームを積極的に受け入れたのはなぜかを検討し,イスラームと海域世界とがいずれも共通する島(港市)型ネットワーク社会である点を指摘した。

 結論において,近代国民国家に代わる将来の世界像を考えるうえで,自然地理・生態系,人間社会,文化・文明の差異性と多様性を<価値>として認める島(港市)型ネットワーク社会の在り方を検討することの必要性を強調した。

2.新井和広「インド洋におけるアラブ移民の変遷:18世紀後半から現代まで」

 本講演ではインド洋で活躍した人々の中でも特にアラブに注目し,移民の概要を説明した後,インド洋が彼らの移民活動に果たした役割についての見解を述べた。

 インド洋におけるアラブ移民の歴史は長いが,講演者が研究してきたのは18世紀以降に大規模な移民を行ったアラブである。彼らのほとんどは南アラビアのハドラマウト地方出身者であり,祖国の不安定な政治状況,厳しい自然環境などを背景に,よりよい生活を求めて移住を行ったと考えられている。

 主な移住先は東南アジア,インド,東アフリカであり,移住先の社会において経済・政治・宗教など様々な分野で大きな影響を与える存在となった。また,移住先で富を築いた者による祖国への送金・投資はハドラマウト社会に大きな影響を与えた。

 このように,ハドラマウトとインド洋沿岸地域のつながりは強いが,近代以降に関する限り,インド洋海域の自然・地理条件がハドラミーの移民活動に与えた影響は限定的である。

 移住先の選定にあたって彼らが重視したのは外国人にとっての経済機会の有無という,むしろ政治によって決定される条件であり,当時それを満たしたのがインド洋沿岸地域であった。実際,第二次世界大戦以降は,インド洋沿岸各地に成立した国民国家の政策により,ハドラマウトへの送金が困難になったことに加え,新たな移民も難しくなったことからインド洋沿岸地域はハドラミーにとって移住先・送金元としての役割を終えていったのである。

 現在でも海外在住の裕福なハドラミーから祖国への送金・投資は続いており,この点ではハドラマウトと域外の関係の構造は変化していない。しかし,インド洋沿岸地域とのつながりは,宗教教育を通じた人のネットワークという形に変わっている。現在移住先,送金元としての役割を担っているのはサウジアラビアやアラブ首長国連邦のアブダビなど,近隣諸国である。

2008年度後期・日本イスラム協会公開講演会

アフガニスタンを知る2講

【日時】

【場所】

【詳細】

(2008年11月28日於東京大学)

1.岩井俊平「バーミヤーン遺跡周辺から見た仏教とイスラーム」では,東京・奈良文化財研究所を中心に,「ユネスコ文化遺産保存日本信託基金」および文化財研究所の予算により実施されているバーミヤーン遺跡の保存事業の成果が,写真を交えながら紹介された。バーミヤーン遺跡のある現在のアフガニスタンに当たる地域は,クシャーン朝やサーサーン朝をはじめとして様々な民族によって支配され,多民族・多宗教という状況が長く続いた。そのことは,バーミヤーン遺跡の美術が基本的には仏教美術でありながら,それ以外の要素が混交していることにも現れている。また,8世紀以降イスラームが同地に到来し,以後イスラーム化が進む中でも,仏教の残存やさらには西方への伝播が見られることは,当時の宗教的状況が単純なものではなかったことを示している。

2.八尾師誠「新生国民国家アフガニスタンの現在と今後-国民創出への歩み-」は,やはりビデオを交えながら,最近のアフガニスタン情勢を伝える。アフガニスタンは,古来よりそれを囲む地域との関係の中で多民族地域としての歴史を歩んできたが,それは近代になっても変わらず,パシュトゥーン人,タージーク人,バザーラ人の政権が誕生しては交替してきた。現行憲法では,宗教,国民の定義,公用言語などが定められ,「アフガン人」としての国民創出を目指す姿勢が定められていることが指摘され,さらに欧米や日本で人気を博した映画「君のためなら千回でも」の紹介や,講師が国立公文書館や町で出会った人々との接触から得た,アフガニスタンにおける国民アイデンティティの現状と見通しへの感触が語られた。

2008年度前期・日本イスラム協会公開講演会

現代イラン政治を知る2講

【日時】

【場所】

【詳細】

(2008年4月27日於東京大学)

 1. 松永泰行「イスラーム国家の世俗化と統治--イラン革命から30年--」

 イランでは1979年のイラン・イスラーム革命の結果、イスラーム国家が樹立された。革命の指導者で新体制における統治者となったアーヤトッラー・ホメイニーは、革命前より、イスラーム国家樹立の目的は聖法的規範の執行にあるが、一度そのような国家が樹立された暁に神に由来する統治権を持つのは、彼のようなイスラーム法学者であり、国民はその命令に従う義務があると宣言していた。14年余りに亘った亡命から帰国して3日後の1979年2月4日に、ホメイニー師は、テヘランでバーザルガーン暫定首相を任命した際の演説において、極めて直裁的な言い方で、神権統治の側面と国民の服従義務を強調した。しかし実際には、自ら統治者として陣頭指揮する場面は比較的少なく、主にその責務を国内政治プロセスに委ねることとなった。

 ホメイニー師は1989年6月に死去したが、その1年余り前の1988年1月に、イスラーム国家の裁量は通常の聖法的規範に必ずしも縛られるものではないとの自説を公に再確認した。イスラーム法学者の絶対統治権の宣言としても知られるこの考え方について、イランの非聖職者の政治理論家であるサイード・ハッジャーリアンが、統治を通じたイスラーム国家の世俗化を導くものであると議論を発表している。本講演では、イスラーム国家の樹立から30年近く、またその宣言から20年が経過した現在までの大きな傾向と、体制益(maslahah)を勘案した非ムスリムの生命の代償(diyah)についての国家裁定などの例などを基に、その議論の真偽の可能性を検討した。

 2.佐藤秀信「現代イランの政治と社会:第9期大統領選挙結果に見る中央―地方関係」

 近年の国内外メディアは、強硬派大統領、核開発、テロ支援、反米・反イスラエル主義、イスラム神権統治などの言葉をもって、現代イラン政治に関する言説を我々の現前で生産し続けている。しかしそのような言説は、イランとその周辺が内在的に抱える困難をほとんど反映しておらず、現在も将来も、実態との乖離は進むばかりといえる。本講演は、2005年第9期大統領選挙結果を手がかりとし、一方に中央と政治、他方に地方と社会を対置して、その相互関係を探ることで、イランが国民国家として営まれる上での中核的問題群、すなわち多様な社会集団間を調整するガバナンス能力を、主に社会経済的側面から検証するものであった。

 講演では、選挙結果の地方差を分析し、その結果を革命以降の自給自足政策・ポピュリズム政策と擦り合わせ、最後に以下の結論を得た。

(1)政治欲求の多様性:広いイランの国土においては、政治欲求のあり方やその基礎条件が地方社会によって多様に異なる

(2)アフマディーネジャード大統領誕生の「必然」:イラン全土の社会・人口構成の現状からすれば、同大統領当選は当然の現象であった

(3)国民の総保守化にあらず:有権者は政治を冷徹に観察し、個人・社会集団の自己利益最大化を図って投票に臨んだだけであった

(4)国家の調整・ガバナンス能力不足が根本問題

 イランの根本的な政治問題は、複雑な統治制度と共に多様な国民の諸要求を調整するガバナンス能力の不足にあり、今後、体制の改革・変更が起こると仮定しても、残り得る深刻なものである。

2007年度後期・日本イスラム協会公開講演会

イスラム復興

【日時】

【場所】

【詳細】

(2007年11月23日於東京大学)

 1. 飯塚正人「イスラーム復興の思想的背景と現実:アラブ世界を中心に」

 講演では,1.思想的になぜ「イスラーム復興」が起き,2.継続するのか,また3.一般大衆の次元の「イスラーム復興」と思想的な「イスラーム復興」の論理は同じなのか違うのか,といった問題の解明に取り組んだ。「3.」は「復興」の中核を成す運動家(「イスラーム主義者」)の論理と,「イスラーム復興」を支持する一般大衆の論理とを,それぞれに解明する作業とも言える。

 まず「1.」については,神の意志・命令に服従すれば報酬(来世で個人に永遠の天国が与えられ,現世では共同体が繁栄する)が約束される一方,命令に従わなかった場合には,来世で個人に永遠の地獄,現世で共同体の没落が待っているとするイスラーム信仰の基本を紹介し,これが1967年の第三次中東戦争における惨敗を「天罰」と理解したムスリムの発想の源であったことを明らかにした。すなわち,外敵の優勢を「天罰」ととらえ,その原因を自分たちがシャリーアを疎かにした「事実」に求めるからこそ,現状の批判的認識に立ってイスラームを実践しようとする「復興」が起こるのであって,これがこの現象の思想面からの説明である。

 次いで,「3.」を解明する前提として,小杉泰氏の提示する「イスラーム復興」の理念型――「イスラーム覚醒」から「イスラーム復興運動」への展開――を参照し,「イスラーム覚醒」の具体例として「一九六七年の第三次中東戦争で屈辱的な敗北を喫したエジプトでは,「まじめにイスラームを実践してこなかったために,天の警告がくだったのだ」という思いから,いわば国民的な規模でのイスラーム回帰が生じている」(小杉泰編『イスラームに何がおきているか――現代世界とイスラーム復興』平凡社,1996年,改訂版2001年,p.21)といった形で,先に述べた「イスラーム復興」の思想面からの説明が「イスラーム覚醒」にも共通する現象として描かれていることを確認した。

 実は講演者自身も21世紀初頭までは同じ理解に立っており,「本来最も神に愛され繁栄を享受してよいはずのムスリム諸国がなぜ新興の「ユダヤ教徒国家」イスラエルに惨敗したのか。この問いに対し,多くのムスリムは「自分たちが世俗化してシャリーアを捨てたがために,神の怒りを買った」と考えた」(拙稿「「イスラム原理主義」とジハードの論理」板垣雄三編『「対テロ戦争」とイスラム世界』岩波新書,2002年,pp.9-10)などと書いてもいるのだが,この5年ほどは「20世紀後半にもなって,本当にムスリムの多くが敗戦を天罰と考えたのだろうか?」「もしそうだとしたら,同じ問いは2003年のイラク戦争の敗北後にも立てられたのか?どうも自分が肌で感じているムスリムのあり方とはずいぶん違う気がする」「19世紀に西洋に圧倒されたときも「なぜムスリムがキリスト教徒の西洋などに遅れを取ってしまったのか?」という,似たような問いは立てられた。しかしウンマ生誕以来1200年続いた繁栄の歴史の結果,現実の政治・経済・軍事の状況を報酬/天罰と考える伝統的なイスラーム思想をまったく疑わずに済んだ19世紀ならともかく,100年以上にわたって欧米の後塵を拝してきたムスリムの多くが1967年の時点でも19世紀と同じ問いを立てたのだろうか?立てたとしたらなぜなのか?」といった疑問を抑えきれなくなっている。

 そこで,第三次中東戦争惨敗直後のエジプトの政治状況に目を向けると,そこでは周知のとおり,敗戦責任をめぐるナセル大統領と軍首脳との確執を見ることができる。つまり,少なくとも初期の段階では,第三次中東戦争における惨敗を「天罰」と理解した人々は多数派ではなかったと見ていいだろう。「天罰」説を信じるムスリムも確かにいたには違いないが,この説はむしろ政権による敗戦責任回避の一環として喧伝されたものと考えるべきなのかもしれない。

 とはいえ,事実上シャリーアを廃し「イスラーム主義者」を弾圧してきたアラブ民族主義政権に対する疑念や不満が人びとのなかにあったことは事実だし,自己反省とイスラーム実践の勧めにあえて反対するムスリムもいなかったことから,「イスラーム復興」は広汎な草の根的基盤を持つ現象となったのではあるまいか。

 さらに1973年のオイル・ショックで国際経済を震撼させて以来,ムスリムが一部取り戻すことになった自信は,それまで「西洋近代文明とイスラームの教えは矛盾しない」と主張するだけで精一杯だったムスリムの態度を一変させ,「イスラームの何が悪いのか」「西洋近代文明にも問題はある」といった形で,自身の文化遺産の価値を積極的に主張することがふつうになった。

 フランソワ・ブルガはこうした点に注目し,「イスラーム復興」は「ナショナリズムの第三段階=政治的独立,経済的独立に続く文化的独立」と見るべきだと主張しているが,実際に今日,ムスリムと付き合っている実感では,「敗戦を天罰と考える人々」というより,「ナショナリズムの第三段階にいる人々」という印象の方がしっくり来ることは否めない。「敗戦=天罰」説に立つ運動家と「イスラーム復興」を支持する一般大衆の論理はある部分では重なっているものの,その違いもまた大きいのではなかろうか。

 以上を踏まえたうえで,講演の最後では,1970年代以降,多くのアラブ諸国政権が民衆の間に広まった「イスラーム復興」の気運を受けて「イスラーム政府」を自称し,イスラーム法に従う「イスラーム国家」「イスラーム社会」の建設・維持が国是となるに至ったこと,報道用語もそれまでの「反帝国主義闘争」が「ジハード」に変わるなどイスラーム化が進み,政治をイスラームの文脈で語ることが一般化して,政教分離を主張する言説はいまや政府自身によって禁止されていることなどを指摘した。

 この結果,今日のアラブ諸国における政府と「イスラーム主義」勢力の思想的対立は,表面上,自国の「イスラーム国家」性をめぐる自己評価の問題に還元されてしまっており(自称「イスラーム政府」 vs自国の「イスラーム国家」性を疑うイスラーム運動),“政教分離を推進する政府”vs“「イスラーム国家」の建設を求めるイスラーム運動”という真の対立点が思想的な論議の的となることはない。

 もっとも,このことはすなわち,アラブ諸国の政府自身が思想的にイスラーム運動の潜在的な支持者を育ててしまっていることを意味しており,こうした対立言説のありようこそが,「2.」の問い(なぜ「イスラーム復興」が継続するのか)への回答,「イスラーム主義」が弱体化しない思想面での理由と考えられるのである。

 2.澤江史子「イスラーム復興がもたらす対立と可能性:トルコの女性運動を通じて考える」

 現代のイスラーム復興は,日本のメディアで取り上げられる場合,まずは過激派として,さらに,女性との関わりで考えれば抑圧や人権の蹂躙という側面が強調される傾向が強い。本発表では,そのどちらのイメージとも異なる復興の側面を紹介するために,トルコの女性運動を取り上げた。

 トルコの主要な復興運動は,そもそも過激派や宗教の名の下の権威主義体制とは異なる方向性を志向している。それは共和国初期の近代化政策が近代化=西洋化=世俗化と解釈されて,カリフ制やイスラーム法廷などイスラーム的国家制度の廃止という政治体制分野での改革にとどまらず,宗教教育や教団活動の制限や禁止という国民の日常的な宗教実践と結びついた領域においても世俗化を目指した政策がとられたことと関係している。

 このような世俗化改革の結果,トルコの復興運動は何よりもまず日常生活に密着した宗教実践の自由の回復・拡充を目指し,そうした自由を再び危険にさらすような過激な反体制運動は敬遠されることになったのである。復興運動はむしろ,学校教育制度の中でのイスラーム教育の拡充に力をいれ,男女を問わず高学歴化と復興が相乗的に進行することになった。また,イスラーム勉強会や慈善活動などを行うサークル的活動も活発化し,特に慈善活動は女性の社会参加の一つの方法として重要な位置を占めるようになっている。

 高学歴化と復興の同時進行は,政治社会の世俗化を国是と奉じる軍部や大学当局らにとっては「イスラーム革命」の脅威と受け止められ,女子学生やキャリア女性のスカーフが脅威のシンボルとして弾圧されることになった。政治社会のイスラーム復興と平行するようにスカーフ禁止の政策が何度も出され,1998年以降は現在に至るまで,私立を含むすべての学校と公的機関の勤務者・学生のスカーフが禁止されている。

 スカーフ着用を宗教的義務と考える多く女性たちはスカーフを取ることを拒否し,退学や懲戒免職の処分に処せられた。彼女たちはスカーフ着用の自由を求めてデモ活動や法廷闘争を国内外で繰り広げている他,自分たちの専門性を生かして教育や医療などの分野でNGOを立ち上げ,国際的に活動し始めている。また,スカーフのために退学したり,進学できない学生のために海外留学を支援する活動も立ち上げている。

 このように,女性のイスラーム復興をめぐる軋轢は,社会運動の組織という新しい側面を切り開くきっかけを女性たちに与えたが,他方で,妻のキャリア中断・失業が従来,比較的対等だった夫婦関係に上下関係的な変化をもたらしたり,妻のスカーフ着用が自身の昇進や雇用継続に影響すると考えた夫が妻にスカーフを取るか結婚生活を選ぶかを迫るなどの問題に発展するケースさえ起きている。

 こうした問題に直面した女性たちは,これまでにもまして,女性の経済的自立や女性の地位向上のための啓蒙活動の重要性を認識し,組織活動を立ち上げようとしている。しかし,そのように苦境の中で活躍する女性たちの陰には,進学や就職の道をたたれて抑鬱状態に陥ったり,自分の信仰に従ってスカーフを選ぶ限り,自分に将来はないと悲観する多くの女性がいる。イスラーム復興をめぐる対立は女性運動の躍進に大きな契機を与えたと同時に,深刻な政治社会問題を引き起こしているのである。

イスラムの絵画と建築

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(2007年4月21日於東京大学)

1.桝屋友子「イスラム地域における写本絵画の発展」

 イスラム聖典のコーランに規定された偶像崇拝禁止のために、一般にはイスラム地域では絵画表現が発達していないと考えられがちであるが、絵画表現の禁止は実はコーランには言及されていない。むしろ、「ものを描く行為」が「神の創造の模倣」と見なされることが、ムハンマドの言行録ハディースでは問題視されており、絵画に関する解釈と態度は時代、場所、民族によって異なる。

 

 イスラムにおける絵画形態には、モザイク、壁画、工芸品(陶器・ガラス器)の絵付、ラッカー画(エナメル画)、写本絵画、紙・絹に描かれた、1枚物の絵(16世紀以降)があり、19世紀以降はカンヴァス画も制作されるようになった。このうち、写本絵画はイスラム地域で最も盛んに制作され、かつ美的価値の高い絵画形態である。写本は手書きの本を指し、イスラム写本の素材は羊皮紙か紙で、冊子体をとる。写本絵画とは写本に施された口絵、挿図、挿絵であり、必ず本文に附随する。科学書などでは本文の図解であり、物語本などでは本文の内容をわかりやすく描いた挿絵となる。

 

 イスラム写本の制作の手順は、製紙(多くは麻)、料紙装飾(金箔、マーブルなど)、本文のための罫線引き、本文書写(葦ペン、インク)で、このとき挿絵に該当する部分を残し、挿絵内容が決定される。挿絵においては、鉱物、その他植物、昆虫などに由来する絵の具、ペルシア猫とリスの毛の筆を用いて、構図のコピー、下絵、着彩、ディテール描写の順に分業により進められ、絵画が完成すると枠飾り、ボーダー装飾などの彩飾が行われて、写本全体が装丁される。

 

 イスラム写本絵画鑑賞のヒントとして、今回は「枠からはみ出す絵」と「ディテールの楽しみ」をご紹介した。

 

2.深見奈緒子「世界建築史にみるイスラム―ヴォールティングとタイルから―」
 

 7世紀前半にイスラム教が始まって以来、スペインから中央アジアまで広まったイスラム教徒が関与した建築には、いくつかの共通する傾向が指摘できる。そのひとつに、ドーム(ヴォールティング)技法の発達や被覆材としてのタイルなどがある。その理由として、建築文化は風土の影響を受けやすいので、共通性の基盤には、中緯度乾燥地域という自然環境が大きく寄与していることが指摘されている。

 

 けれども、イスラム教は、東南アジアやヨーロッパに加え、アメリカ大陸やオセアニアなど異なる風土をもつ広い地域にひろがり、20世紀の現代的なモスクも数多く作られる。こうした建築をも含めて、イスラム建築という括りを見わたすとき、イスラム教徒が関与しているということを除けば、ほぼ世界中の建築文化を見渡すことになる。
それでは、世界の建築におけるドームとタイルを見渡したとき、イスラム建築の範疇で扱われるドームとタイルはどのような位置を占めるのだろうか。この命題を考えることは、イスラム建築という枠組みの意味を問い直すことにもつながると思われる。

 ヴォールティングとタイルに分けて、その発生から19世紀までの事例を辿ってみた。両者ともに技法におけるいくつかの変局点が指摘できた。ともにその起源はイスラムの始まり以前に遡るものの、いわゆるイスラム建築の中で大きな発展を遂げていることが確認できる。加えて、そうした技法は、イスラム建築の外の範疇の建築文化にも大きく影響を及ぼしてきたことがわかった。

 

 しかしながら、なぜそのような変化がおきたのかということを考えると、いまだ見当が付かなかったり、推測の域をでないこともある。いくつかの事象については、もう少し大きな世界の動きが建築文化に大きく影響しているのではないかと推察される。大帝国が成立することによって、より広い地域に建築技法の伝達が可能となり、交易圏の拡大によって、タイルのような商品はその流通範囲がさらにひろまったことが想定される。すなわち、ヴォールティングとタイルという事例のなかに現れるイスラム建築の変遷は、内的な発展だけでなく、他の建築文化との交流によって大きく誘引されていたといえよう。

 それぞれの国民国家が自国の建築史を構築する現代において、イスラム建築という国家や地域を越えた枠組みであるということ、またイスラム建築の場合単にモスクや墓建築などの宗教建築に限らず世俗建築も含まれることは、建築文化の変容を考える場合に効果的である。たとえば仏教建築を考える場合、日本の仏教建築とアジア諸国の仏教寺院を含めた大きな視点はないし、キリスト教建築にしても、ロマネスク、ゴシック、ルネサンスという文化区分は西ヨーロッパのカソリック建築史に限られている。このように地域や宗教の分派の相互関係を検討できるという点は、イスラム建築史というくくりのもつ利点である。

 

 一方、イスラム建築史というくくりからわからなくなってしまうことも指摘できる。イスラム建築の外側に位置づけられた建築文化との関連性が問われることは稀で、たとえばイスラム建築の成立過程、あるいは同時代同地域に存在する他の宗教建築文化との係わり合いも議論されることは少ない。また、イスラム建築が他の建築文化にどのような影響を与えたかという点は、いまだ体系的に整理されていない。
 
 このような状況を考えれば、イスラム建築史という効力を持った枠を柔軟に使い、そこからもう少し外側に広げたり、枠の垣根を低くしていくことが必要なのではないかと思う。

 

 さらに一歩進んで、人、もの、技法、美意識などの移動によって、19世紀以来研究者たちによっていくつかのかたまりに分けられてきた建築文化が、その枠を超えて影響しあっているとするならば、もう一度その枠組み自体を考え直すことも必要ではないかと思われる。世界の関係からもう一度世界規模での建築史を考え直し、連動する変局点とその原因を探し、新たな枠組みを提案していくこともわれわれの課題といえよう。

ヴォールテイングとタイル

東南アジア島嶼部のムスリム

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(2006年12月3日於東京大学)

1.床呂郁哉「フィリピンのイスラーム-その歴史と現在」では,最初に,その伝来と浸透に始まり,フィリピン諸島におけるイスラームの歴史の概要が述べられた。16世紀以降にフィリピン諸島のキリスト教化を目指すスペインと,それに抵抗する現地ムスリム(モロ)とのあいだに繰り広げられたモロ戦争,それに続くアメリカによる植民地化と共和国成立の過程のなかで,フィリピン・ムスリムは周辺化していった。そのなかで興ってきたムスリム分離独立運動と,その具現化でもあり結果でもある,現代的文脈におけるイスラームの再生の試みがどのようなものなのかが,ムスリム身分法廷やイスラーム銀行などの例を引きながら紹介された。

 

2. 辰巳頼子「モロの名乗り-フィリピン・ムスリムの自己認識をめぐって」は,フィリピン・ムスリムを指すのにしばしば用いられる「モロ」という呼称が歴史的にどのように用いられ,現在に至っているかを主題とする。「モロ」は,16世紀にフィリピンを占領したスペイン人が本国においてアラブやベルベル人にたいする蔑称として用いていた「ムーア人」が転訛した言葉で,フィリピン・ムスリムにたいするやはり蔑称として用いたのがその始まりである。しかし現代では,モロ民族解放戦線の創始者ヌル・ミスアリが,言語集団や宗教を超越した民族としてこれに新たな意味を吹き込み,モロという名乗りは積極的な意義を有するようになった。そのような例として,講演者が自ら体験した,フィリピン大学のムスリム学生や,若いムスリム女性グループによるモロの自称の例を通じて,自己を表現する手段としてのモロの名乗りについて分析がなされた。

 

3.長津一史「イスラームの制度化と権威-マレーシア・サバ州,海サマ人のイスラーム化をめぐって-」は,マレーシア,とくにサバ州におけるイスラームの制度化と,制度化にともなって生じたローカルな社会秩序の変化の過程を跡づけ,海サマ人のイスラーム化をそのような社会秩序の変化との関係において理解することを主題とする。前半では、国家主導の法制度および教育面でのイスラームの制度化が具体的に説明された。結論としては,第1に,1970年代以降のサバ州ではイスラームの権威が公的イスラームの構成要素=マレー人とマレー語,公的イスラーム機関によって表象されるようになったこと,第2に,海サマ人のイスラーム化,とくにムスリムとしての地位の確立は,イスラームの制度化と連動した社会現象であったことが示された。しかし,公的チャンネルを通じたイスラーム化は,イスラーム制度化にともなう社会秩序の変化の意味をふまえたうえでの,かれらの被差別的状況からの脱却の試みであったことも指摘された。

イスラーム世界の少数派:タイのムスリム

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(2006年4月22日於東京大学)

1.西井凉子「南タイにおけるムスリムと仏教徒:改宗者の死をめぐって」 

 仏教徒が95パーセントを占めるタイにおいて、ムスリムは人口の4-5パーセントを占め、タイ国内においては最大のマイノリティである。しかしマレーシアとの国境近くの南タイでは、ムスリムは人口の過半数を占めている。

 

 ムスリムと仏教徒の関係を考えるとき、マレー語を母語とするムスリムが大多数を占める東海岸と、仏教徒と同じタイ語を母語とするムスリムの多い西海岸は分けて考える必要がある。東海岸は、タイ政府にとっては1960-70年代のムスリムの分離独立運動の時も、また2004年1月からの南タイで勃発している反政府的な暴力的事件の中心となっているが、西海岸では現在に至るまでこうした問題のない模範的なタイ国民としてのムスリムと捉えられてきた。

 

 本講演は、こうした西海岸において、ムスリムと仏教徒がいかに日常生活において20パーセントにのぼる通婚関係を取り結び、宗教的な実践をしているのかを、仏教徒からイスラームに改宗した青年の遺体をムスリム側と仏教徒側の親族が奪いあう事件をとりあげることにより示そうとした。

 

2.今泉慎也「タイの司法裁判所におけるイスラーム法の適用:ダト・ユティタム(イスラーム法裁判官)の役割」
 

 仏教徒が多数を占めるタイにおいても,人口の約5%のムスリムが存在する。そのなかでもマレーシア国境の4県を中心に居住するマレー系ムスリムは最大のグループとなっている。この地域では分離独立をめざした運動が長く続いていた。2004年から新たな武装グループの活動が始まったが,政府の対応の失敗が事態をさらに悪化させてきた。政府による和解委員会の設置など問題解決に向けた取組みが現在も進められている。

 

 タイでは,マレー系ムスリムが多い南部国境4県に限って,ムスリム間の家族・相続事件について司法裁判所におけるイスラーム法の適用を認める。イスラーム裁判所を設置する代わりに,通常の司法裁判所においてイスラーム法事件を扱わせること,そして,イスラーム法上の問題を判断させるため,「ダト・ユティタム」と呼ばれる特別の裁判官がおかれていることがタイのイスラーム法の特徴となっている。

 

 本報告では,ダト・ユティタム制度の歴史的な背景や制度的枠組み,さらに司法裁判所においてダト・ユティタムが果たしている役割について考察を行った。

イスラーム世界の少数派:ユダヤ教徒とキリスト教徒

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(2005年12月10日、於東京大学)

1.松田俊道(中央大学文学部教授部)「中世エジプトにおけるズィンミー」

 中東のイスラーム世界には,現在においても非イスラーム教徒の共同体が多数存在している。7世紀にアラブムスリムはアラビア半島から出て各地を征服した。彼らが征服した領土すなわちダール・アルイスラームにおいては,非イスラーム教徒はズィンミー(ズィンマの契約を締んだ者)とみなされ,保護された地位が与えられたが,アラブのエジプト征服時,エジプトの住民のほとんどはキリスト教徒で,少数派のユダヤ教徒がいた。その後,複雑な過程を経て改宗が進み,キリスト教徒は少数派になった。

 8世紀にはアラビア語が公用語になり,10世紀にはズィンミーの間で交わされる契約もアラビア語で記されるようになった。修道院制皮が発達し,宗教的,経済的,文化的な拠点となった。都市ではキリスト教徒は街区に集まって住んだが,完全な独立した集団ではなくムスリムとともに,杜会,経済,政治活動に共同参加していた。

2.黒木英充(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授)「庇護を受ける者たちの戦略:オスマン帝国時代の通訳をめぐって」

 通常イスラーム国家における「被差別民」として語られるズィンミーの存在形態を探る手がかりとして「通訳」に注目してみたい。オスマン帝国と外交関係を持ったヨーロッパ諸国は,自国民の通訳を養成する場合もあったが,主としてオスマン帝国臣民たるズィンミーを通訳として雇用した。通訳の地位は,ヨーロッパ側にとっては,自国の権益内に囲い込んだ保護の対象であったが,通訳自身にとっては自らの能力開発や人的ネットワーク,通商関係へのアクセスなどの特典を伴うものであり,むしろ自ら積極的に利用するべき地位なのであった。その結果,数多くのニセ通訳や,テスタ家に代表される通訳一家の出現をもたらした。

 1820年代のギリシア独立戦争の後,オスマン帝国はムスリム官僚の通訳を養成し,ヨーロッパ諸国も自国民の通訳に頼るようになり,ズィンミーの通訳の役割は重要性を失っていった。

イスラーム世界の少数派

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(2005年4月30日(土)、於東京大学)

1.子島 進(東洋大学国際地域学部)「イスラームとNGO活動:アーガー・ハーン開発ネットワークと現代イスマーイール派」

 歴史上のイスマーイール派は、ファーティマ朝の栄華や、アラムートの「山の上の老人」の伝説で知られている。現代のイスマーイール派を知る人は少ないが、その活動のユニークさも、また昔日のそれに劣らない。すなわち、宗派アイデンティティの中核となるまでに、NGO活動を精力的に展開しているのである。特に、イスマーイール派が集中して暮らすパキスタンの北部では、農村開発、保健衛生、初等・中等教育、歴史的建築の保存修復、さらには観光開発にいたるさまざま活動がおこなわれている。

 これらのNGO活動は、アーガー・ハーン財団やアーガー・ハーン大学を中心とする「アーガー・ハーン開発ネットワーク」として、高い評価を社会開発の分野で受けている。そして、すべての活動を牽引するリーダーが、第49代イマームであるアーガー・ハーン四世その人にほかならないという事実が、この活動をユニークなものとしている。シーア派教義の根幹にあるイマーム位が、NGOの原動力となっているのである。

 イスマーイール派におけるイマームは、行き過ぎた個人崇拝の対象として、多数派からしばしば批判の対象となってきた。しかし、現代イスマーイール派は、このイマームの指導力をまさに全面的に展開する形で、イスラームのメインストリームへ参画しようとしているのである。

2.黒岩 高(武蔵大学人文学部)「イスラームと中国文化のはざまで:中国ムスリムの『小経』と『漢文イスラーム文献』」

 唐・宋代より商人・技術者などとして渡来した西アジア・中央アジア出身のムスリム達は、元代に中国各地に散居するようになり、15~16世紀には「回回民族」を形成し、中国ムスリム(ここでは概ね、日常語として漢語を用いるムスリムを指す)の母体が形成された。しかし、各地に定着したムスリムの置かれた社会・政治的環境は決して安楽なものではなく、彼らの歴史には「中国社会の一部として生きる」必要と「イスラームをより遵守する欲求」のジレンマが常につきまとっていたといってもよい。本講演では、そうした「葛藤」をよく示す事例として、明末清初以降に現われた「回儒」とその著作と中国ムスリム独特の表記法である「小経」を紹介した。

 「回儒」とは漢文を用いて、イスラームに関する書物を著していたムスリム知識人を指す。17世紀以降、主に中国沿岸部から発信された「回儒」の著作の成立背景には、当時の中国ムスリムが直面していた様々な社会状況がある。中国の非ムスリム(≒漢人)社会に関わるものとしては、知識人・地方官の中国ムスリム批判の高まりに対する「弁明」の必要性や、キリスト教関連文献の活発な漢文への翻訳と出版活動からの刺激があげられる。中国ムスリム内部に発するものとしては、「経堂教育」(イスラーム知識に関する教育)の発達によるイスラーム知識の充実に伴う「自己の文化に対する自負」の発露、あるいは、ムスリム・コミュニティ内の漢語知識人層のイスラーム知識獲得への欲求の高まりといった事情があった。

 「小経」(「小児錦」)とは、アラブ・ペルシャ語の字母を用いて中国内地のムスリムの日常語(漢語方言等)を表記したもの、あるいはこの表記を用いて著されたものを指す。この表記法は当初、上記の「経堂教育」の中でイスラーム知識の伝授の際に用いられ、その発達と共に華北や西北部のムスリムの間で一般的な表記メディアとして定着していったものである。現在でも、西寧や臨夏など西北部の中国ムスリムの間では、中高年層を中心に、この表記法を用いる者が少なからず存在するし、「小経」で書かれた文献も多い。

 さて、漢語・アラビア語教育の充実の中で、「小経」は表記法としての利用価値を失いつつある。また、そこには毀誉褒貶はなはだしい「西部大開発」の中での、「伝統」と「開発」の対立構図も垣間見える。一方、「回儒」の著作は聖地巡礼が活発に行われ、西アジア・イスラームとの交流の進む中で、かえって中国ムスリムの間で徐々に再認識されている「けはい」が感じられる。

 その独特さという面で「中国的イスラーム」の「核心」ともいえる両者が、この後どうなっていくのか目が話せないところである。

イスラーム世界の少数派

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(2004年12月4日,於立教大学)

1.山口昭彦「クルド人問題への視角:トルコの場合」

 建国以来、近年に至るまで、トルコが自国のクルド人に対し徹底した同化政策をとってきたことはよく知られている。このような厳しい姿勢をとり続けてきたのは、クルド人問題が、単に少数派の権利を認めるか否かという問題にとどまらず、トルコ国家全体の国民統合に関わる重大な問題であるとの認識があったからにほかならない。すなわち、第一次世界大戦後、オスマン朝が解体されるなかから誕生したトルコは、オスマン朝と同じく、多民族国家として成立した。したがって、トルコ・ナショナリズムを統合理念に掲げつつも、あくまでもトルコ国民とは民族的出自を問わずトルコ共和国に居住する住民を指すという立場をとってきた。ところが現実には、国民意識を醸成する過程で中央アジア起源を強調するなど、国民としてのトルコ人概念とエスニック集団としてのトルコ人概念との区別を意図的に曖昧にしたまま国民統合を図ってきた。国民のなかに占める割合も大きく、中央アジア起源という神話のなかに包摂し得ないクルド人の存在は、かかるトルコ・ナショナリズムの論理を根底から否定しかねないものであった。

 このような歴史的経緯を念頭に、近年、トルコの知識人のなかには「憲法的市民権」なる考えを唱えるものが現れるようになった。これは、国民としてのトルコ人概念と、エスニックな意味でのトルコ人概念を明確に区別し、前者は特定の民族集団を指すものではなく、あくまでもトルコ共和国の住民を指し、そこにはエスニックな意味でのトルコ人をはじめ、クルド人など多様な民族集団が含まれうるという考え方である。つまり、国民としてのトルコ人概念から民族性を取り除き、「トルコ国民」を多文化主義的な社会を保証する「普遍」的な共同性としてとらえなおそうというわけである。

 このような考えがトルコ社会に根付いていくにはなお時間がかかると思われるが、少なくとも現在のような特定のエスニック集団に基づくトルコ国民概念が想定される限り、そこから排除されたクルド人などの異議申し立てがやむことはないだろう。近年、クルド人たちの間から「共和国創設基本要素」論が打ち出され、クルド人がトルコ人とともに建国を担った主要な民族であるとして、建国神話の中にクルド人を位置づけることを要求しているのは、その一例といえる。

 欧州連合加盟を目指すトルコでは、ここ数年、さまざまな改革が実施されてきた。なかでもクルド人問題については、クルド語での出版や放送に加え、私的教育に限ってのクルド語教育も認められ、長年クルド人問題をめぐって生じてきた政治的社会的緊張も相当程度緩和されることとなった。むろん、こうした動きが問題の解決につながるかどうかは、今後、トルコ国民概念をどこまで真剣にとらえ直すかにかかっている。クルド人問題として問われているのは、ほかならぬ「トルコ人」問題だからである。

2.松尾昌樹「オマーンにおけるイバード派:その歴史的展開とオマーン・ナショナリズムの立場から」

 現在のオマーンでは、開発政策の成功を背景に世俗君主であるスルタン・カーブースを改革・解放の象徴とした国民統合が行われている。しかしながら、イバード派がオマーンのナショナリズムにおいて重要な役割を果たす可能性があるのではないだろうか。イバード派は7世紀半ばに成立したハワーリジュ派の分派であり、今日ではその大多数はオマーンに居住しており、オマーン人の過半数がイバード派とされている。イバード派の教義は、イマームを指導者として信徒の共同体が導かれるべきであり、イマームはウラマーや有力部族長の会議によって、家系的な制約なく選出されるべきとされている点にある。既に廃止されたスンナ派のカリフ制度や、イマームが「お隠れ」状態にあるシーア派と比較して、イバード派はすぐにでもイマームを擁立して、イマームを中心とする政治体制を確立することが教義上可能である点が重要である。またイバード派イマーム政権は歴史的に「外敵」に立ち向かうためにオマーンの諸勢力を統合する機能を果たしてきたと見ることができるため、このような歴史観がオマーンの国民統合に有効に機能する可能性が高い。さらに、世界宗教であるイスラームの分派ではあるが、事実上オマーンに限定された少数派であり、前述の歴史的経緯も考慮すると、イバード派はオマーンの「民族宗教」として機能し得る。これらの点から、イバード派は今後もオマーンのナショナリズムの観点から注目すべきであると考えられる。

融合する北アフリカ研究-バイオ・環境・情報・文化

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(2004年4月24日,於立教大学)

安部 征雄 (筑波大学農林工学系教授)

1.「センター全般について」

筑波大学北アフリカ研究センターは、北原保雄前学長のリーダーシップと北アフリカ地域研究の発展の可能性を確信する本学教職員および対象国の関係者の熱意により、この4月に発足し、具体的な活動を開始しました。

我が国にとっての北アフリカは、これまでは、アジア諸国や欧米諸国と比較したとき、組織的な研究が集約されにくかった地域の一つでした。しかし、昨今の世界情勢の中、当地域の重要性が高まっており、グローバル化された状況下で、我が国の関与の必要性ならびに必然性が求められています。そして、その関与による影響の大きさと効果への期待が強く認識されています。

そこで、新たな観点からの北アフリカ研究の試みにより、国際貢献の実質的な成果を上げ、大学としての特徴の発揮の場として活かせるよう活動する決意です。

北アフリカ研究センターは組織完成時にはセンター長と4名の専従教員が核となり、本学のバイオテクノロジー、乾燥地環境、情報インフォメーション技術および言語・文化研究分野の100名を越す教員が協力教員となり、研究活動を推進していくことになっております。それに我が国の関連分野の大学、研究所および専門家数十名が学外研究教員として加わり、さらにチュニジア、リビア、エジプト、アルジェリア、モロッコの北アフリカ諸国の大学、研究所および専門化が多数協力して研究者集団を形成して調査・研究および事業に係わっていくことになっています。現在、そのシステム作りが着々と進められております。

また、同時に、北アフリカ研究に関係する文部科学省、外務省を初めとし、国際協力銀行(JBIC),国際協力機構(JICA),国際交流基金等の国際協力機関ならびに学会、協会等の諸団体との具体的なプロジェクト、事業案件および共同研究の検討と創出を精力的に取り組んでおり、数多くの連携の形が姿を現すものと期待しております。

2.「乾燥地における土壌、水環境研究の考え方と展望」

北アフリカ地域は、半乾燥地から乾燥地、沙漠まで短い距離の間に自然環境が変化していき、生態的にも多様であると共に、地球規模の様々な環境問題を引き起こしている場でもある。これらの問題解決に乾燥地域の存在とそこでの研究の深化が貢献しうるとの考えから、固定観念を見直す発想の転回を図りつつ、対極に在るとされてきた様々な要素を融合させることを試みる。また、多くの要素が複雑に絡み合う事象に対して、システム的運用の考え方を導入し、問題解決に必要な総合的解析と評価手法の確立を目指す。


青木 三郎 (筑波大学文芸・言語学系助教授)
「北アフリカ研究の科学技術と文化」

イスラム研究は、明治以来の欧米研究に比べれば、規模ははるかに小さく、中東の石油産出国と関係している。しかし今回チュニジアのような石油のない小国に注目するのは、この地域のもつ自然と文化の多様性による。マグレブの自然は微生物のようなミクロの世界から、沙漠、半乾燥地、海洋のようなマクロの世界までが一つの有機体を作る。この地域の文化は、地中海、アラブ・イスラム、アフリカ文化へのアクセスという多様性をもつ。その中でも重要なのは、<地中海―アラブ世界>という軸である。この軸を中心に据えて我々は哲学・宗教、文学、言語研究、日本語教育などのプロジェクトの可能性を提案する。

藤村達人(筑波大学農林工学系教授)
「チュニジアの農業とバイオテクノロジーの展開の可能性」

チュニジアは日本の中~西部と同緯度に位置し、その北部は地中海性気候に属し冬に農業に十分適した年間1000mm近い雨量がある。そこでは2000年以上の昔から豊かな作物栽培や牧畜が行われてきた。中部は半乾燥地域であり、200~500mmの雨量でオリーブなどのこの気候に適した作物が作られている。南部は雨量がほとんどないが、一部で良質の水を確保できるオアシスがあり、ナツメヤシの栽培が行われている。

最も大きな産業は観光で、また皮革製品などの軽工業が輸出の主体で、外貨獲得からみた農産物の役割は大きくない。しかし、穀物を輸入する年はあるものの、国内消費の大半を国産の農産物で担っており、安定な国民生活を維持する上での産業として重要な位置を占めている。決して大国とは言えないこの国から輸出されている農産物もある。ナツメヤシは世界第1位である。オリーブ油は6位である。しかし後者はスペインの1/30の量で世界的にみた規模は小さい。

北部の比較的雨量の多い平野部や丘陵地域ではオオムギおよびコムギが栽培されほぼ国内需要を賄っている。また山地ではコルクガシが栽培されコルクが生産されている。これの生産の歴史は古いが、品質は高くない。その他、多種の野菜やモモ、ビワ、オレンジ、ブドウ等々の果物が栽培されチュニジア国内で消費され豊かな食生活を彩っている。

オリーブの生産はチュニジア中部の半乾燥地域の農耕可能な地域の大部分で栽培されており大きな産業となっている。果実として輸出され、また、オリーブ油としても輸出されている。品質も悪くはないが良質のものはヨーロッパに輸出され輸出先のブランドで流通しておりチュニジア自身のブランドの評価は高くない。

オリーブについてはチュニジア国内だけでも野生のものを含めて50種類があり、世界的にも重要な遺伝子資源となっている。逆に品種が多様になり、輸出の際のブランド力や、品質保証の力を弱めている。今後はこれらの多様な遺伝子資源を有効に使い、例えば健康食品など、高付加価値の商品の開発が望まれる。また、オリーブオイルの搾りかすも膨大な量が廃出され、それのバイオマス資源としての有効利用の模索も必要であろう。また、乾燥地農業の技術についても、400年の樹齢のオリーブを引続き利用していることからわかるように、抜本的な技術革新がない。これらの改良も必要である。

井田 哲雄 (筑波大学電子・情報工学系教授)
「チュニジアのIT事情について」

次の点にわたって,最近のデータや現地調査の結果をふまえて考察する。 

l 情報通信機器やインフラの技術面からみた利用可能性
O 一般市民が,PCや携帯端末を使って,インターネットにアクセスできるか
O 研究者がコンピュータを駆使して,研究の高度化ができるか

l 情報の共有,発信の制度面からの利便性

l イスラム社会特有の現象

(1)情報通信のインフラの整備は政府主導で積極的に行われているが,規模の拡大という点ではまだ不十分であり,今後の民間セクターでの積極的な投資が必要である,

(2)市民レベルへのITの普及に関しては,所得水準の向上に待つところが多い,

(3)インターネットや電子メイルでの情報の発信,受信に関しては,欧米や日本に比べると,様々な制約があることなどが特徴的な点である。

一般社団法人 日本イスラム協会

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