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公開講演会
公開講演会について
日本イスラム協会では、毎年春と秋に公開講演会を実施しています。
毎回イスラム地域の文化、社会に関するテーマを一つ取り上げ、その分野でご活躍中の研究者や専門家を講師として迎えます。
開催情報は、講演会の1ヶ月ほど前から当ウェブサイトに掲載します。
また、会員以外の方でも無料でご参加いただけます。
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「コロナ禍におけるムスリムの宗教実践」
【日時】
2021年6月20日(日)午前10時00分~12時50分(質疑応答含む)
*従来の開催時間とは異なりますので,ご注意ください。
【場所】
【詳細】
ZOOMウェビナーによるオンライン開催
イスラームは「五行」を信仰の柱に数えるように,実践を重んじる宗教であると言われます。コロナ禍における日本とアメリカのムスリムの宗教実践についてご報告頂きます。
講演者と演目
・下山茂氏(東京ジャーミイ・トルコ文化センター広報担当)「イスラームと感染症、聖地マッカそして東京ジャーミイ」
・高橋圭氏(東洋大学)「北米のスーフィー団体―オンラインとオフラインのはざまで」
参加方法:申込フォーム(https://forms.gle/GhGYkZ6kL1c77XjR8),またはポスター(下記リンクよりダウンロード可)のQRコードより,6/17(木)までにお申し込み下さい。当日までに,Zoomウェビナー会場のリンクをご登録のe-mailアドレスにお送りいたします。
「「イスラーム的」な風紀を考える―サウジアラビアの場合」
(共催:科学研究費補助金(基盤研究(B))「現代ムスリム社会における風紀・暴力・統治に関する地域横断的研究」(代表:高尾賢一郎)
【日時】
2020年10月24日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)
【場所】
【詳細 】
ZOOMウェビナーによるオンライン開催
1970年代以降,イスラーム主義の高まりが顕著となっていますが,そのゴールとしての「イスラーム的」な国家や社会のあり方は,往々にして権威主義的なステレオタイプに陥りがちです。今回は典型的な「イスラームの国」とされるサウジアラビアの専門家であるお二人からお話を伺います。
講演者と演目
・高尾賢一郎氏(中東調査会)「宗教警察から見るイスラーム的風紀」
・辻上奈美江氏(上智大学)「女性の消費と起業実践からみる「イスラーム」と風紀」
参加方法:申込フォーム(https://forms.gle/22MLZV5SC4TtePTj9),またはポスター(下記リンクよりダウンロード可)のQRコードより,10/22(木)までにお申し込み下さい。当日までに,Zoomウェビナー会場のリンクをご登録のe-mailアドレスにお送りいたします。
「移民・難民からみる中東と欧州―ドイツの事例から」
【日時】
2019年10月5日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)
【場所】
【詳細】
東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室
中東の不安定化は,地球規模で影響を及ぼしている移民・難民問題の一因となっています。その縮図ともいえる欧州の中でも,特にこの問題に積極的に関与してきたドイツで現地調査に従事しているお二人からお話を伺います。
東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室
https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_07_j.html
※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。
講演者と演目
・石川真作氏(東北学院大学)「「外国人」「移民」「イスラム教徒」―ドイツ在住トルコ系移民の沿革――」(仮題)
・大河原知樹氏(東北大学)「ドイツにおける社会統合の理想と現実―旧東ドイツハレ市の調査を中心に―」(仮題)
「イランとサウジアラビアー中東の新たな対立軸」
【日時】
2019年6月8日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)
【場所】
【詳細】
東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室
近年の中東情勢から浮かび上がるイランとサウジアラビアの対立構造。その背景と域内外に対するインパクトについて,中東政治の専門家に解説していただきます。
東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室
https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_07_j.html
※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。
講演者と演目
・坂梨祥氏(日本エネルギー経済研究所)「イランの「抵抗戦線」とサウジアラビア」
・松本弘氏(大東文化大学)「イエメン内戦の背景とゆがみ」
「日本のムスリム―モスクと宗教活動」
【日時】
2018年10月6日(土)午後2時00分~4時40分(+質疑応答)
【場所】
【詳細】
東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室
ムスリム人口が極めて少ない日本においても,近年,モスクは増加し,宗教実践および信者間または信者と地域社会のコミュニケーションの場として重要な役割を果たしています。この問題を長年調査してきたお2人の専門家にお話をうかがいます。
東京大学(本郷キャンパス)国際学術総合研究棟1階3番大教室
https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_07_j.html
(前回と会場が異なりますので、ご注意下さい)
※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。
講演者と演目
・店田廣文氏(早稲田大学)「日本のイスラム社会」(仮題)
・岡井宏文氏(早稲田大学)「ムスリム・コミュニティと地域社会」
「国家,民族,宗教ー東南アジアの知られざるムスリム・マイノリティー」
【日時】
2018年6月16日(土) 午後2時00分~4時30分
【場所】
【詳細】
東京大学文学部法文1号館 113教室(本郷キャンパス)
世界のムスリム人口の半数近くを擁する東南アジアにも,マイノリティーとして暮らすムスリムが存在します。今回は,最近日本でも報道されているロヒンギャ問題と,カンボジアの事例を通じて,国家,民族,宗教の関係を考察します。
東京大学文学部法文1号館 113教室(本郷キャンパス)
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_01_j.html
(前回と同じ会場です)
※入場無料・事前申込不要。当日直接会場までお越し下さい。
講演者と演目
・根本敬氏(上智大学)「ロヒンギャ問題とは何かー存在を否定された人々の歴史と現状」
・大川玲子氏(明治学院大学)「カンボジアのチャム人ムスリムークメール・ルージュによる迫害と今ー」
「中東とアメリカ」
【日時】
2017年10月14日
【場所】
【詳細】
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・溝渕正孝「『アメリカ後』の中東?――揺れる超大国と地域秩序の行方」」
・横田貴之「「エジプト革命」再考—イスラーム主義の政治的「敗北」の考察」
「イスラームにおける信仰論:全容と真髄 イスラームの中核としての信仰を論じる:真の理解を求めて」
【日時】
2017年5月13日
【場所】
【詳細】
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・水谷周「イスラーム信仰論の全貌」
・松山洋平「イスラームにおける信仰の条件:罪ある者と無知なる者の信仰」
「サイクス=ピコ協定から100年―パレスティナ問題の今」
【日時】
2016年10月8日
【場所】
【詳細】
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・藤原亮司「ガザの破壊と援助、分断されてゆくパレスチナ」
・錦田愛子「再難民化するパレスチナ人~サイクス・ピコ合意100年目の離散の現状」
「イスラームと西洋―過去と現在」
【日時】
2016年6月19日(於東京大学)
【場所】
【詳細】
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加藤博「イスラーム文明と西欧」
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竹下政孝「イスラーム世界と西洋ー近くて遠い隣人関係」
「2015年イスラーム世界」
【日時】
2015年6月13日(於東京大学)
【場所】
【詳細】
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飯塚正人「アラブ諸国におけるイスラム主義運動の動向」
見市健「インドネシアにみるイスラーム主義運動の普遍性と地域性」
「ムスリム女性とヒジャーブ―イスラームにおける空間分離とヴェール」
【日時】
2014年11月30日(於東京大学)
【場所】
【詳細】
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1. 山﨑和美「男女の空間分離という社会規範とイラン女性」
2. 後藤絵美「エジプトにおける芸能人女性の悔悛とヴェール」
2013年度後期・日本イスラム協会公開講演会
トルコの歴史と文学―16-21世紀
【日時】
2013年11月24日 (於東洋大学)
【場所】
【詳細】
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1. 宮下遼「トルコ文学の中のイスタンブール:文学的言説空間からのアプローチ」
本講演では,古来より言語,宗教,文化的背景を異にする様々な人々によって文学作品に描かれてきたイスタンブールの姿を,16世紀から21世紀まで通時的に辿った。この都市を天の園に比せられる世界の中心として寿いだトルコ古典詩人や,異文化圏へのロマンティシズムとエキゾティシズムの主要な源泉として活用した西欧作家から説き起し,共和国建国後,作家の関心がアナトリアへ向けられ農村小説が興隆する50年代から80年代には都市周縁のスコッターを介して描かれる社会的貧困の一類型の中に埋没していったことを紹介し,こうした前提条件が「イスタンブールの作家」オルハン・パムクの登場をしてこの街の「文学的復権」とする類の言説に結び付いている点を指摘した上で,主に90年代作家たちによってパムクとは全く異なった都市表象が紡がれ続けている点も挙げ,文学者たちのこの都市へのコミットメントがいまだに豊かな多元性を保っているという結論を述べた。
2. 佐々木紳「近代トルコの文学と言語:多元的理解に向けて」
中東・北アフリカ・バルカンに領域を広げたオスマン帝国では,さまざまな言語と文字が用いられた。そこでは,「トルコ語」さえもが多様な姿をとった。この講演では,アラビア文字表記のトルコ語(オスマン語),ギリシア文字表記のトルコ語(カラマン語),そしてアルメニア文字表記のトルコ語(アルメニア・トルコ語)で営まれた文芸活動と諸作品を紹介しながら,多元的・差延的な構造をもつ「オスマン文学」の世界を概観した。まず,オスマン社会の言語と文字,およびリテラシーについて確認し,つぎに,シェムセッティン・サーミー『タラートとフィトナトの愛』,ミサイリディス『世界遊覧,そして虐げる者と虐げられる者』,ヴァルタン・パシャ『アカビの物語』を取り上げながら,オスマン帝国における小説登場の時期について検討した。そして,フランスの文豪アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』のオスマン帝国における受容の経緯をたどりながら,多言語・多文字社会における翻訳文学のあり方と諸集団の嗜好の偏差について論じ,最後に,「オスマン文学」というフレームの有する可能性と有用性について提言をおこなった。
2013年度前期・日本イスラム協会公開講演会
マグリブ・アンダルスの歴史と社会
【日時】
2013年6月2日(於東京外国語大学)
【場所】
【詳細】
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1. 佐藤健太郎「ジブラルタル海峡の北と南~イスラーム期のスペインとその対岸」
ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸とを分かつジブラルタル海峡は,最も狭いところでわずか15キロメートルの幅しかなく,海峡の両岸では,古来,頻繁な交流が見られた。今回の講演では,アンダルス(イスラーム期のイベリア半島)と対岸のマグリブとの密接なつながりを示すため,特に14世紀を対象として様々な事例を紹介した。
まず海峡の両岸には頻繁な知識人の交流が見られた。アンダルスで生まれマグリブで活躍する,あるいはその逆の経歴を持つ知識人の事例は枚挙にいとまがない。これを可能にしたのは,アラビア語を共通語とする共通の文化的土俵であった。また,海峡の両岸は文化の流行も共有していた。グラナダのアルハンブラに代表される14世紀的な彩色タイルと精妙な石膏細工で特徴付けられる建築様式は,同時代のマグリブのマドラサ建築にも見て取れる。また,フェスのマリーン朝宮廷で始まった預言者生誕祭の夜宴は,「マグリブ式」の流儀をともなって同時代のグラナダにも導入されていた。
さらに,13世紀に大規模に展開されたキリスト教徒の征服活動に伴って,アンダルスから大量の移民がマグリブに到来したことも見落とせない。セビーリャからチュニスに移住し,14世紀には歴史家イブン・ハルドゥーンを生み出すハルドゥーン家がその好例である。同様のアンダルス移民はマグリブ各地に見いだすことができる。1492年のグラナダ陥落,1609年のモリスコ追放によりアンダルス移民の流れはさらに続き,彼らがもたらした文化遺産は現代に至るまでマグリブ各地に伝えられている。
2. 斎藤剛「ベルベル人とイスラーム―モロッコにおける「先住民」運動の展開とその宗教観」
北アフリカから西アフリカ一帯を故郷とする人々に,ベルベル(アマズィグ)人と呼ばれる人々がいる。彼らの中でもとくにアルジェリア,モロッコ出身者はフランスなどに多く移民をしている。ベルベル人の間では,近年,故国と移住先の国々をつなぐトランスナショナルなネットワークを活用しつつ,故国における言語権,教育権の承認をはじめとした諸権利を請求すると共に,フランスなどにあってはアマズィグ人としてのアイデンィティーを希求すると共に,自らを先住民と規定する動きが高まっている。
本発表では,モロッコにおけるアマズィグ運動の成立と展開の概要を把握すると共に,アマズィグ運動に顕著な言語観,歴史観,故郷観との関わりで,アマズィグ運動においてイスラームはいかなる位置づけを持つものなのかを明らかにすることを目指した。
以下,発表の内容を簡単に記す。まず,アラブ人とベルベル人を差異化する運動の民族認識が,フランスによる植民地支配期に実施された学術調査や宣教活動,民族政策において醸成された民族観に由来するものであることを示した。そこでの特徴の一つは,イスラームを北アフリカにもたらしたアラブ人に比して,ベルベル人のイスラームは「表層的」なものであるという理解である。このようなイスラーム化の度合いの違いを民族と結びつける理解は,その後,世俗主義的な傾向を有し,イスラームから微妙に距離をとろうとする運動主導者たちに継承をされていくことになる。
次いで,独立後のモロッコにおけるアマズィグ運動の成立背景には,国家統合政策の一環としての「アラビア語化」や「モロッコ化」政策,公共の場や教育におけるベルベル語の使用禁止,都市への人口流入の増加による独自の慣習や伝統,言語の忘却への危惧,都市生活を開始したベルベル人への差別などがあることを指摘した。さらに,当初は国家の厳しい規制対象となっていた運動が1990年代に入ってから国家の主導の下,積極的に容認され活発化するようになった経緯を明らかにした。
運動の特徴は,とくにその言語観,歴史観,故郷観,宗教観に現れている。言語観においては,2001年に設立された王立アマズィグ学院主導の下で,もともとモロッコに存在するベルベル系の三言語を統一して新たな標準アマズィグ語を創出する際に宗教的語彙を選択的に排除して策定していることを明らかにした。故郷観については,ベルベル人の従来の故郷概念タマズィルトとは別に,運動が新たに北アフリカから西アフリカのベルベル(アマズィグ)人の分布域を包含するタマザガという故郷概念を創出しているという側面に注目をした。この新たな故郷概念の創出と連動しているのが,運動における歴史観である。運動主導者は,タマザガという領域的故郷概念を措定したうえで,そこにおけるイスラームが,東方イスラーム世界とは異なる穏健なイスラームであったと認識をしている。
世俗主義的な傾向を有しつつ,国家主導の下で力を得てきたモロッコにおけるアマズィグ運動は,しかし,同じベルベル人の一般住民の広範な支持を得て展開している運動ではない。一般住民の多くがムスリムとしての自負心を有しているという一般的状況の中において,宗教色を脱した世俗主義的な自己認識を過度に推し進めることは,住民の自己認識から乖離する危険性を伴っている。運動が言語策定において宗教的語彙を選択的に排除しているのにも関わらず,歴史観において,東方イスラーム世界におけるイスラームのあり方と北アフリカにおけるそれとの差異を強調しているのは,このような運動の目指す方向性と,一般住民の感覚とのズレを埋めるという意味合いをもったものと考えられる。
2012年度後期・日本イスラム協会公開講演会
イスラーム化とは何か―中東と西アフリカの事例
【日時】
2012年11月17日(於東京大学)
【場所】
【詳細】
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1. 柳橋博之「中東におけるイスラーム化の経緯:改宗と法学派の展開」
イスラーム化という言葉には,イスラームへの改宗と,ムスリムが自分がムスリムであることに自覚的になることや様々な社会規範がイスラームの教義に合致しているか否かを問題することの2つの側面が含まれる。本講演では,東イスラーム世界を中心として,改宗の進行と法学派の拡大について論じた。最初に,アラブ・ムスリムにより征服された地域におけるイスラームへの改宗を扱ったバリエットの研究を簡単に紹介した。次に,スンナ派4法学派の一つであるハナフィー派が,学祖アブー・ハニーファの偉業を讃える言い伝えを広めることにより自派の勢力を拡大しようとしたり,一般信徒のためにイスラームの教義についての平易な解説書を著したりしたことを指摘し,それぞれ幾つかの事例を挙げて説明した。
2. 苅谷康太「西アフリカにおけるイスラームの歴史的展開:11世紀から19世紀まで」
7世紀前半に西アジアのアラビア半島で成立したイスラームは、マグリブ(北アフリカ西部)、サハラ沙漠西部を経て、遅くとも11世紀前半には、その発祥の地から遠く離れたスーダーン西部(サハラ以南アフリカ北西部)にまで伝播した。本講演では、このアフリカ大陸の西側の地域一帯にイスラームが至る過程、およびそこで発生したイスラームに纏わる諸事象を、「第1部:アラビア半島からスーダーン西部へ(7–11世紀)」、「第2部:サハラ西部から始まる宗教改革運動(11–12世紀)」、「第3部:諸王とイスラーム(13–16世紀)」、「第4部:連鎖するジハード(17–18世紀)」、「第5部:スーフィー教団の展開(18–19世紀)」の5部構成で時代順に確認し、10世紀以上に及ぶ時間的推移の中で展開した〈イスラーム化〉の様相を具体的に検討した。
2012年度前期・日本イスラム協会公開講演会
イスラーム金融の現状
【日時】
(2012年4月30日 於東京大学)
【場所】
【詳細】
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1. 福島康博「イスラーム金融の仕組みと各国の取り組み」
近年日本でも注目を集めているイスラーム金融について、主にグローバルな市場規模と各国の体制作り、イスラーム金融の仕組み、そしてイスラームから見たイスラーム金融の意義の3点を、本講演では取り扱った。
2011年現在のイスラーム金融市場は、1兆米ドルを上回る規模となっている。中でも湾岸諸国(GCC諸国)とイランを中心とする中東・北アフリカ諸国とが大きな割合を示しており、これに東南アジアのマレーシアが後を追っている状況となっている。他方、非イスラーム諸国(OIC非加盟国)としては、グローバルな金融センターの役割を担っているイギリスとスイスが比較的大きい。イスラーム金融の利用者だが、マレーシアのイスラーム銀行を例に挙げると、融資を受けた者のおよそ60%が個人(家計部門)であり、利用目的は自動車や不動産購入、教育ローンが中心となっている。他方、預金残高に占める個人の比率は20%強にとどまっている。こうした点から、マレーシアにおけるイスラーム銀行は、企業や政府の余剰資金を融資という形で家計に部門に供給し、利用者の住宅や自動車購入を実現させることで、人びとの社会生活の拡充に寄与している。
金融産業はもともと政府・中央銀行による規制が厳しい産業であるが、イスラーム金融が産業として成り立つためには、政府・中央銀行による経済・金融政策はもとより、法律・会計・税制などの諸制度、さらには国内外のイスラーム勢力の動向に左右される側面が強い。例えば、ローン契約の替わりにイスラーム銀行が割賦販売を行うムラーバハ融資においては、ローン契約に比べて借り手の印紙税や消費税の負担が高くなる。そのため、マレーシアやインドネシア、イギリスなどでは税負担の減免措置を講じており、イスラーム金融機関の競争力を損なわせないような対策が取られている。こうした減税措置には政府の意向が不可欠であるため、結果的には、政府のスタンスがその国のイスラーム金融産業のあり方を大きく規定しているといえる。また、シャリーア法廷がイスラーム金融のあり方に異議を唱えた例(パキスタン)や、ファトワー評議会がムスリムによるFX取引(外国為替証拠金取引)を禁ずる判断を下した例(マレーシア)もあり、国内のイスラーム団体・組織が間接的にイスラーム金融に影響を与えることがある。
イスラーム金融が誕生したきっかけは、20世紀初頭のエジプトに登場した郵便貯金に対し、利子がクルアーンで禁じられたリバーに該当するのではないかという議論が起きたことに由来する。その後、イスラーム法学者などによって金融システムに対する検討が行われ、リバーの排除だけでなく、ハラールの遵守、ガラル(不確実性)の排除、ザカートの負担、そしてシャリーア・ボードの設置などが求められ、これらに応える形で現在のイスラーム金融制度が整えられた。中でも、イスラーム金融商品は、これらイスラームに反すると目される要素を排除するため、近代以前よりイスラーム諸国で伝統的に用いられてきた契約形態を援用することで、とりわけ巧妙に利子発生の問題を回避している。
ムスリムにとっては、イスラーム法は日常生活に密接に係わるものであり、経済・金融活動も例外ではない。例えば豚やアルコールに対しては、単に飲食が禁じられるだけでなく、身体的接触やこれらを扱う業者への融資・投資もまた禁じられると解される。ここから、小売業、運輸業、食品製造業、金融業などでイスラームに反する要素を排除したハラール産業が近年興ってきている。イスラーム金融は、安全・安心なムスリムの日常生活を金融面から支える産業といえよう。
2. 椎名隆一「ビジネスとしての日本におけるイスラーム金融~非ムスリム国のイスラーム金融への係わり方~」
20世紀後半からのイスラーム復興の流れと、70年代から始まった中東オイル・マネーに象徴される富の急激な蓄積を背景として勃興した現代イスラーム金融は、国際金融のゆるぎない潮流の一つに成長した。イスラームとは歴史的な関わりが薄い日本でも、イスラーム金融誘致のために既に国内法を改正して取り組みを開始している。
ただし、日本のイスラーム金融への関心は、総じて、イスラームの深い理解に基づくものではなく、もっぱら実利的な動機によるところが大きい。 しかし、こうしたビジネスライクなモチベーションであっても、中東・マレーシアをはじめとするイスラーム金融推進国は、非ムスリム国の取り組みを太宗は歓迎するというスタンスであり、イスラーム金融はムスリムだけのものという狭い考え方ではない。イスラームが本来もつ「他文化への寛容性」とでもいえるような対応を示している。
イスラーム金融は、利息(リバー)の禁止以外にも、損益分担や実態取引の裏付けを重視する金融であり、日本のように、深いイスラームへの理解をもたない国であっても、イスラーム金融を実践することにより、自ずとこの実態経済に見合った金融を実践することになる。
日本では、まだ初歩的な段階ではあるが、二つのアプローチでこれまでイスラーム金融に取り組んできている。一つは、イスラーム・マネーを日本やアジアに誘致することによる金融・証券市場や地域の活性化等を目指したいとする金融当局や政府系機関等による上からの政策的なアプローチ(Top Down Approach)であり、一方で内外合わせた民間の様々なビジネスの取り組みによる下からのアプローチ(Bottom Up Approach )とが同時並行的に展開している。
イスラーム金融を日本国内で実施する場合、シャリーア的な金融の組み立てが、国内法体系とどの程度、親和性があるかが重要なポイントとなるが、日本法との類似性が一部みられるところもあるが、完全に同じものはない。従って、そのままできるところと、法改正が必要なところがある。ただし、法改正を行うにしても、日本の対応は、部分的であり、イスラーム金融を正面から見据えた民商法などの基本法の改正を含む包括的なアプローチではないため、新たに作られた法律の枠組みに基づいてイスラーム金融を行う場合にも、様々な制限に直面する可能性がある。
2008年に銀行法施行規則等が改正され、子会社等を通じたイスラーム金融参入が可能になったが、法律上は「金銭の貸付と同視すべきもの、宗教上の理由により利息禁止、専門的な知見を有する者による合議体の判断」といった要件を指定するだけのものであり、また、2011年の日本版スクーク実現のための法改正では、これまでほとんど使われていなかった資産流動化法の中の特定目的信託が発行できる「社債的受益権」を利用すれば、スクーク的な扱いとするための必要な税制をつけるといったアプローチの仕方である。
目下、日本版スクークの実現が注目されているが、国内発行体の利用ニーズは、全般的に日本企業の資金調達ニーズが停滞気味であることや、低金利下で銀行などの間接金融有利となっていることなどから、スクーク発行の動機をもつ企業を見つけるのは当面難しさが指摘されている。
日本の取り組みが実を結ぶには長い時間がかかると予想されるが、一端、利用者が現れれば、急に市場が勢いづく可能性はある。国内的にも、震災後の復興需要、特にインフラ整備関係で、日本版スクーク活用のポテンシャルは大きい。また、マレーシア等の海外発行体にも本市場を活用しての資金調達を行う道が開かれている。
2011年度後期・日本イスラム協会公開講演会
アラブ世界-回顧と展望
【日時】
2011年12月10日(於東京大学)
【場所】
【詳細】
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(1)臼杵陽「近現代史の中のアラブ革命」
講演ではアラブ革命をアラブ近現代史の中で位置づけることを目的とした。まず、現状を概観した上で、「ジャスミン革命」とエジプト革命は、「若者革命」「ネット革命」等々と命名され、独裁体制崩壊の背景に、新自由主義的政策に伴う貧富の格差の拡大と失業があり、また、独裁的支配者層の政治腐敗と縁故主義と不正蓄財があり、国軍が動かなかったことも政変を後押ししたことが指摘された。次に、アラブ近代における植民地化の類型化を行ない、革命の起こった国々はオスマン帝国支配下にあり、19世紀以降、「近代化」の道を歩む中で植民地化された歴史的事実を確認した。さらに、「東欧の春」以降、アラブ地域の民主化は進むどころか、逆に権威主義的独裁体制が強化されることになり、「アラブ例外論」が語られるようになった。そのようなアラブ例外論に関して、政治的優先課題としてアラブ・ナショナリズムやイスラーム運動といった既存の国家の枠組みを超える汎(パン)的運動の存在が大きな要因としてあることを強調した。最後に、識字率、出生率、内婚率を指標として革命の勃発を予見しようとするE・トッドの人口統計学的観点からのアラブ革命論を批判的に検討した。
(2)長沢栄治「エジプト革命の歴史的位置づけ」
2011年1月以来のアラブ諸国の政治動向について、共和制国家と王制・首長制国家を比較して概観し、今回のアラブ革命の波が60年前のアラブ民族革命と同じく、全アラブ世界に及んでいることの歴史的な意味を論じた。エジプトについていえば、近代史上の四大革命(1798年反フランス占領抵抗運動、1881-82年オラービー革命、1919年革命、1952年7月革命)との比較において、とくに新しい国家体制の構築との関連で、今回の革命がどのような結果をもたらすのかが注目される。民衆蜂起の規模からいえば、1919年革命に匹敵するし、また7月革命との比較でいえば、この60年前の革命でできた体制(ナセル的国家)の変革こそが今回の革命の課題となっているという見方を示した。最後に、ナギーブ・マフフーズ『バイナル・カスライン』塙治夫訳(新訳『張り出し窓の街』)で描かれるような1919年革命における殉難者たち(シュハダー)、また東日本大震災の犠牲者・殉難者たちとの比較のもつ意味についても言及した。
2010年度後期・日本イスラム協会公開講演会
イスラーム世界の墓廟参詣
【日時】
(2010年11月23日於東京大学)
【場所】
【詳細】
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1. 守川知子「神と人をつなぐ場へ――シーア派ムスリムの聖地巡礼」
イスラームは,基本的に神と人とのあいだに,司祭や僧侶といった仲介者を置かない教えをもつ。しかし,イスラーム社会にも「神に愛された人々(神の友)」が存在し,神に選ばれし彼ら「聖者」には,神から賦与される恩寵(バラカ)が自身の肉体や身につけているものに宿るとされる。このような聖者は,アッラーと信徒とのあいだを「とりなす」存在として一般の信徒たちの尊崇を享受する。加えて聖者に賦与される神の恩寵は,聖者の生前のみならず,死後もまた同様の効果をもって聖者の遺体や身につけていたものに宿りつづける。そのため,聖者の墓や廟は,恩寵を授かる場として,イスラーム社会で広く信徒たちの参詣地としてにぎわいを見せてきた。
シーア派は,預言者ムハンマドの従弟かつ娘婿のアリー(661年没)を指導者として重視する一派であり,ムハンマドの血の「聖性」を伝えるアリーの子孫たちを「イマーム」として尊崇する。シーア派では,各地に残るイマームの墓への参詣がきわめて盛んである。代表的なイマームの墓廟としては,アリーの眠るナジャフやフサイン(680年没)の殉教地であるカルバラー(ともにイラク),イランのマシュハドなどが挙げられるが,これらの聖地は現在もまた非常に多くの参詣者を惹きつけている。
歴史的に見て,このようなシーア派の聖地巡礼が最盛期を迎えたのは,19世紀後半のことである。この時代,イランからイラクへの参詣者は,年間10万人(当時の人口の1%)にものぼった。今回は,この19世紀後半のシーア派ムスリムの墓廟参詣について報告した。まずは,おもにその参詣旅行の諸相を,ルート,時期,期間,参詣者の形態,移動の手段,宿泊,費用,動機といった各方面から検討し,つづいてイラクの参詣場所や参詣しない場所,そして参詣以外に彼らはどのようにしてイラクで時間を過ごしているのか,といった諸点について言及した。
その結果,参詣者が片道1ヵ月の道のりを集団となって徒歩で移動し,社会的身分に応じはするものの数ヵ月から1年分の俸給に相当する金銭を費やし,ときに生きている人々のみならず,死者さえも,天国の約束された聖地に眠ろうとキャラバンとともに運ばれる(移葬),といった参詣の諸相を明らかにした。一方で,聖地に到着した参詣者たちは,毎日の廟参詣のほかに,観光や散策,買春,商売など,多様な活動に従事する。当時の有名な俗諺に,「参詣も,商売も(ham ziyarat, hamtijarat)」というのがあるが,これは聖俗両面をあわせもつ参詣旅行の実態を如実に言い表しており,世界各地の聖地巡礼とも似通う点であろう。
また,イランからイラクへのシーア派聖地参詣はイラン社会にとって見ると,メッカ巡礼に比して,地理的・経済的・心理的・歴史的・言語的諸側面においては近しいものの,社会的な重要性はメッカ巡礼に劣ることを指摘しうる。他方,当時,イランとオスマン朝イラクの国境が画定していくなかで,イランからの参詣者たちは,異国への「聖地巡礼」という行為をつうじて,「イラン人」そして「シーア派」というアイデンティティを確立させていくことになる。同時に,19世紀後半に,イランから大量に流入するシーア派巡礼者は,イラクのシーア派化を進める大きな要因の1つであったことも忘れてはなるまい。これらの諸点が,19世紀後半のシーア派ムスリムの聖地巡礼に関する主だった特徴として挙げられる。
2. 菅原純「変貌する都市と聖墓:カシュガルにおける聖墓の過去と現在」
中国・新疆ウイグル自治区の西部に位置するカシュガルは,東西交渉の拠点として古より繁栄した都市であり,「六城」とも「七城」とも呼ばれた,いわゆる東トルキスタンのオアシス都市群のなかでも,突出した重要性を持つ都市である。政治,経済,宗教,文化の中心のひとつとして,歴史的に形成されたその都市と,都市を包含するカシュガル地方の姿は,まさに雅称「壮麗なるカシュガル('Azuzane Kashghar)」に相応しい,よく整備された都市と農村の伝統的景観を今日に伝えている。
この地方に多数存在する「聖墓」(イスラーム聖者廟/mazar)は,その伝統的景観の中で不可欠の要素であり,地域住民の信仰の拠点として,あるいは地域を跨いだ広域的な人的交流の結節点として,重要な役割を果たしてきた。カシュガル地方の聖墓は,その数は「殉教者の国shahidane」の雅称を持つホタン地方には及ばないものの,おそらくはテュルク人最古の「聖墓」であるアルトゥシュのサトゥク・ブグラ・ハン廟のように歴史的に社会的影響力が確認されるものから,限られた地域の住民のみが敬う小規模なものまで,さまざまな規模・性格のものが多数存在している。
こうした「聖墓」たちは,カシュガル史の中で,たえずその存在感を誇示していたといえる。ムスリムのハーンたちが統治した時代(~18世紀)から,異教徒である清朝の支配下に置かれた時代(18世紀~20世紀),さらには20世紀にウイグル民族主義が高まりを見せた時期にいたるまで,上述のサトゥク・ブグラ・ハン廟,イェンギヒサルのオルダム廟そしてカシュガル旧市東北郊のアーファーク廟などをはじめとする「聖墓」,ならびに「聖墓」に関わる聖裔や信徒たちの名を,私たちは常に史書の記述の中に見出すことができるのである。
さらに,近年は「聖墓」に関係した文書史料(いわゆる「マザール文書」)の利用により,カシュガル史の中での「聖墓」の具体的状況がより詳細に明らかにされつつある。たとえば,『カシュガル・ワクフ文書集成』(仮題。1930年代にまとめられたと思しきカシュガル地区所在のワクフ財産関連文書の手書き筆写による集成)は,当時の「聖墓」をめぐる社会経済状況の包括的把握に資するのみならず,個別の「聖墓」と地域社会,ならびに行政府との歴史的関係を理解する上でも有益な史料である。今後はこうした文書史料の利用と現地調査の実施により,同地の「聖墓」をめぐる事情がより明らかになっていくことと思われる。
21世紀の今日,カシュガルは未曾有の変動の只中にある。中国政府による「改革・開放」,「西部大開発」そして今年(2010年)5月に決定されたカシュガルの「経済特区」化等の国家プロジェクトは,この地域の伝統的景観を劇的に変えつつあり,そうした中で「聖墓」もまたその変化の波に晒されている。カシュガル旧市街では従来の民家をすべて新しいものに建て替える組織的な都市開発がもっか進められており,その中でいくつかの中小規模の「聖墓」はすでに失われた。またアーファーク廟はじめいくつかの著名な「聖墓」は,「信仰の場」から「観光地」へ,すなわち多くの内外の観光客が訪れる世俗的なスポットへと変貌を遂げた。さらに近年顕在化している民族問題は,伝統的な参詣行為や巡礼にも,それに制限を加える形で影響を及ぼしているといわれる。こうした急速な変化が今後果たしてどこへ「着地」するのか,カシュガルの「聖墓」と信仰をめぐる問題は,いままさに興味深い転換点に立っているのである。
2010年度前期・日本イスラム協会公開講演会
異宗教の共生
【日時】
(2010年4月25日於東京大学)
【場所】
【詳細】
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1. 濱本真実「ロシアのムスリム―服従から共生へ」
現在,ロシア連邦には多くのムスリムが居住している。チェチェン紛争に絡んだ報道から日本で得られる印象とは異なり,ロシア連邦内ではムスリムの信仰の自由は概ね保証され,各所でムスリムとキリスト教徒のロシア人が平和的に共生している。中でもロシア連邦タタールスタン共和国は,ムスリムであるタタール人が,紆余曲折の歴史を経ながらもロシア人との平和的な共生を実現している興味深い例である。
16世紀半ばにムスリムのタタール人を臣民とするようになったロシアは,17世紀半ばまで,例外はあったが概して寛容な宗教政策を採っていた。その後ロシアが帝国へと脱皮していく過程で,18世紀半ばまで,ロシア政府は多くのタタール人の住む沿ヴォルガ地方で,タタール人支配層に対しても一般民に対しても,強制的な正教改宗政策を採用した。支配層に対する改宗政策が一定の成果を収めたのに対し,一般民に対する改宗政策は効果が出ず,改宗したのは多くても数パーセントだった。
18世紀後半のエカチェリーナ2世の治世には,それまでの強制改宗政策は撤回され,沿ヴォルガ・ウラル地方ではイスラーム文化が復興する。この時代に,ロシア政府はタタール人を東方拡大政策のために利用するようになり,タタール人もロシア政府の方針を利用して,主に商人として力を蓄えていった。これらのタタール商人は,19世紀末からのロシアのムスリムの近代化に大きな役割を果たすことになった。
2. 菅瀬晶子「中東のキリスト教徒とムスリム―東地中海地域の事例から―」
本講演は,中東でアラビア語を母語とするキリスト教徒の概要について,東地中海地域の事例をもとにまとめたものである。まず,日本ではほとんど知られていない,中東のキリスト教会の教派について簡単に解説をし,キリスト教徒たちがどのような生活を実際に営んでいるのか,いくつかの写真や実例をもとに紹介した。
次に,長い歴史の中で,キリスト教徒とムスリムがいかにして共存関係を保ってきたのかについて述べた。中東では一般的な,一神教すべてを起源を同じくする「アブラハムの宗教」とみなす考え方や,共通の聖者・預言者を敬う民間信仰や,ともに祭を祝う慣習が,共存関係を築く上で大きな役割を果たしている。
そして最後に,その一神教徒の共存関係に亀裂をもたらすこととなったイスラエル建国に触れ,ヨーロッパで生まれたシオニズムが,中東の一神教徒たちに与えた影響について述べた。また,パレスチナ・イスラエルで一神教徒の共存を再構築してゆくうえでも,民間信仰が重要な役割を果たしうることを指摘した。
2009年度後期・日本イスラム協会公開講演会
変貌するイスラーム世界の都市
【日時】
(2009年12月13日於東京大学)
【場所】
【詳細】
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1.新井勇治「イスラーム都市の生活空間-ダマスクス旧市街の変容と現状」
現在のシリア・アラブ共和国の首都であるダマスクスは,数千年の歴史を有し,交易の重要な拠点として栄えてきた。現在のダマスクスの街並みは,古代に起源をもち,中世以来の姿が続く城壁に囲われた旧市街と,近代以降その外側に拡張した西欧的な計画による新市街とに分かれる。特に旧市街やその周辺では,紀元前20年紀にはすでに人が定着し農業が営まれた痕跡が見つかっている。続く古代ローマ,ビザンティン時代には,旧市街が整備され,格子状の街路網や地下水道設備,神殿やアゴラなどの都市骨格が形成された。7世紀にアラビア半島に起こったムハンマドによるイスラーム教の支配下に入った後,ウマイヤ朝で首都となり,アラブ・イスラーム勢力拡大の中心地として益々繁栄した。旧市街の格子状の街路は,次第に複雑に折れ曲がり,袋小路も多くなっていく。この傾向は,ビザンティン時代からすでに見られていたが,イスラム時代にさらに進んでいく。また,緩やかな宗教別の住み分けが進み,イスラーム教徒がウマイヤ・モスクを中心とした西側に,そして東側の北部にキリスト教徒,南部にユダヤ教徒が住み着いた。
次に,旧市街の建築に注目していく。中心部からやや北西に寄ったところに,重要な宗教施設のウマイヤ・モスクがある。このモスクの場所は,古代から聖域として扱われ,古代ローマ時代にはユピテル神殿,続くビザンティン時代には洗礼者ヨハネの大聖堂となり,ウマイヤ朝支配の8世紀初頭に町の大モスクとして建てられた。現在,モスクの周囲には,アラビア語でスークと呼ばれる市場が展開し,小売り店舗やハーンと呼ばれる隊商宿などの商業施設,ハンマーム(公衆浴場)やマドラサ(イスラーム神学校)などの都市施設が密集し,ものや人に溢れた国際的な喧騒の空間となっている。
それに対し,住宅街では静寂や安全性が求められ,よそ者が入り難い,狭く折れ曲がった街路や袋小路が多くなっている。街路には建物の張り出しによるトンネルが至る所にかかり,特に人通りの多い街路から分岐する狭い道の入口に多く見られる。そこには,かつて街区門が設けられ,人の出入りが制限されていた。
薄暗く閉鎖的な街路から,住宅に入ると世界は一変し,緑に溢れ,噴水が設けられている開放的な中庭に出る。中庭は住宅の規模によらず,全ての家に見られ,家族のプライバシーを確保し,快適な寛ぎの空間となっている。
近年の旧市街の状況として,新市街への住人の流出が見られ,空き家となっている住宅が増えてきている。空き家となったためにメンテナンスがおろそかになり,崩壊の危機を向かえつつある住宅も少なくない。また,ここ数年の傾向として,ダマスクス旧市街の観光としての価値の高まりにより,空き家の持ち主や借り手が,伝統的な形態や意匠を残しつつも,住宅内部をレストランやホテルに改修しているケースが急速に増えている。そのため,それまで静寂な住宅街であったところが,観光客や来客によって深夜まで騒がしい場所となってしまい,近所の人々が長らく住んでいた家を出て行かざるを得なくなっている悪循環が生まれ出している。
2.岩崎えり奈「都市社会カイロ―エジプトの都市・農村関係」
本講演では「変貌するイスラーム世界の都市」の例として,カイロを取り上げ,都市社会カイロの歴史的な変遷を説明した後,現代カイロの都市下層地区の現状について事例を取り上げつつ紹介した。
まず初めに,都市カイロの発展と個性について,「ナイルの賜物」という生態的な立地,地政学的な立地条件や社会経済的な特徴から説明し,カイロがアラブ世界における中心であるとともに,エジプト社会においても政治・経済の中心であることを様々な地図を紹介しつつ概観した。
続いて,地図資料に依拠して,伝統都市カイロの形成から現代都市にいたる都市社会カイロの歴史的な変遷を検討し,現代のカイロが伝統都市,近代都市,農地における「インフォーマル」地区と砂漠のアメリカ的な空間を特徴とする現代都市の3つの空間からなる重層的な空間構造をもつことを明らかにした。そして,こうした多様な都市空間がそれぞれに分断されて存在しているというよりも複雑に重なり合っていること,そうした都市空間の重層性が外との関係だけでなく農村との関係によって構築されていると考えられることを強調した。
そして,農村との関係によって形成されたカイロの都市空間の例として,3つの低所得者地区を取り上げ,農地ないしは政府所有の空き地から住宅街へと1980年代以降に変貌した過程,農村から流入し定着した住民の移動過程を調査資料や地図などに依拠しつつ説明した。
2009年度前期・日本イスラム協会公開講演会
中東イスラーム世界とインド洋
【日時】
(2009年4月25日於東京大学)